p4 太夫と花魁
遊女の最高位は太夫と呼ばれ、格式高く、数人といなかった。その中でも高尾太夫は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名され、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓と呼ばれる大名跡であった。
太夫がいかほどのものであったか、
4代目 浅野高尾は。3万石の浅野壱岐守により落籍。
6代目 は播磨姫路藩15万石の当主・榊原政岑に落籍。何れも大名である例からもわかると思う。
宝暦年間以降は吉原も格式ばったことが敬遠され、太夫という名前もなくなり、その後、高級遊女は花魁と呼ばれた。花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれた。
花魁相手には多額の費用は勿論であったが、花魁は客より上座に座り、一度目は客が品定めされる側にまわり、三度目の馴染みで初めて床入りができたとされる。大名、旗本、お大尽でも、気に入らないとなかなか相手にしてもらえない。そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータス(やせ我慢)と考えられていた。一度馴染みとなれば、その花魁意外と遊ぶことは御法度とされ、破ったことがばれると、寝ている間に髷を切られても文句は言えなかったという。花魁相手の吉原遊びは楽でなかったようである。
江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い店の遊女と遊ぶためには、吉原では「引手茶屋」に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、店には揚げ代(遊女が相手をする代金)が落ちる仕組みがあった。これは妓楼だけが儲けるのではなく、幅広く儲けを分け与える合理的な制度と考えられる。
客から金品を貢がせるのが遊女のテクニックとされた。その理由として遊女の生活用品や光熱にかかる費用、また妹分の禿や新造への養育費、また自身の装身具、化粧品などはすべて遊女の自己負担であり、高級遊女になるほど負担額が増えるという店のシステムがあった。そのため、遊女は甘えたり、情に訴えたり、手練手管を駆逐しなければならなかった。
遊女が「ねだる」は良いが、現代で言う『ぼったくり』を店が行うことは恥とされ、もしそのようなことがあると厳しく罰せられた。何しろお上公認のところである。
遊郭の中では、武士も町人の身分もない、男たちの社交場であったが、そればかりでなく、『遊女評判記』なるもので廓の内が紹介たり、花魁を描いた浮世絵等で、さまざまな女性の髷や、衣装などが伝えられ、吉原はさしずめ、文化・ファッションの発信基地でもあった。
盛衰はあったにしても、江戸時代を通じて『花の吉原』の地位を守り通してきたのである。そこには、外の世界と違う、内なる仕掛けや工夫を必要としたのであろう。客が下座に座ったり、客が選ばれたり、金だけにものを言わすは、無粋とされたりは、外の世界を逆転した発想である。かと、思えば、情に訴えたり、甘えたりの手練手管は外の世界の現実そのものを見せる。
今まで例示した『しきたり』や『掟』、独特な『習俗・風習』は、そのためのものと考えられる。「わちきは、なになにでありんす」の『ありんす詞』なんかはその最たるものである。何しろ、全国から集められた貧乏農家の娘たちである。突然「なになにだんべぇー」とか、「こぴっと、気張れ」と言われても、客は「じぇじぇじぇー」と言うしかない。
廓詞が必要とされたのである。「ん」の音便から、京言葉から転訛したものでなかろうかと想像される。このようにして吉原は独特な『内なる世界』を作り上げて行ったのである。
男と女、色と欲、情と義理、悲と喜、憂き世と来世、そこには色んなドラマや物語が生まれる。これらは草子本や芝居に取り上げられ、時には落語の題材となった。それらを取り上げてみよう。
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