p3 遊郭と岡場所の違い

時代物を読んでいると、『岡場所』という名前がよく出てくる。「岡」は傍目八目の(おかめ)で「脇」、「外」を表す言葉で、公許の遊廓に対し、非公認の私娼屋が集まった歓楽街を指す。吉原は格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりなどがあったが、岡場所は、格式張らず、代金も安く、庶民が気軽に遊べる場所として利用されるようになった。


江戸の町が拡張されていく中、街道沿いの日本橋から一つ目の宿場町である品川・新宿・板橋・千住(江戸四宿)が遊び場所(岡場所)として繁盛した。当時、街道、街道の宿場には「飯盛女」と称した遊女を置いた宿があった。「飯盛女」とは文字通り旅人のために給仕をする女中を意味したが、一部が遊女・宿場女郎と化した。飯盛女全てが遊女であったわけではない。

無償の公役や競争激化により宿駅は財政難であり、客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府も、現実の前に飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿における人数を厳しく制限したとされている。


江戸の町は埃っぽい上、大店でない限り家風呂とてない時代、風呂屋が繁盛した。寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に『湯女』が登場することになる。最初は垢擦り、髪梳きを旨としたが、その内2階を使って客の求めに応じるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどになった。


明暦2年(1656年)に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、翌年の明暦の大火を機に、移転に同意した。移転前を『元吉原』、移転後を『新吉原』と呼ぶ。

移転同意には、条件として、幕府から広さを5割増にすることや、夜間営業を認め、湯女を置いた風呂屋を禁止にすること等が提示されたことが大きかった。『花の吉原』といえ、このように湯屋といい、岡場所といい、いつも競争に晒されていたのである。


8代将軍吉宗の時代、人口の調査がされ、吉原は8171人、うち、遊女 2,105人、禿(かむろ)941人、召使 2,163人いたとされる。江戸の人口100万とされる時代、今の東京を1千万とすると8万人に及ぶ。一大雇用立地であった。


吉原の遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(見習いの幼女)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある大店から、路地裏にある小店までの序列があった。多くの遊女は年季奉公という形で働かされ、年季*を終えるか、購った金額を返却できてやっと自由の身になれた。身請けとなって、人妻や妾になるのは最高の幸運とされた。

一部の遊女は一生を遊郭の中で暮らさねばならなかった。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手*」や「飯炊き」「縫い子」等の下働きの再雇用の道が開かれていたが、病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれる浄閑寺に名もない無縁仏として埋葬された。


*年季:一般に『年季は最長10年、27歳まで』とされたが、あくまで原則であった。


*やり手:客と遊女の間を取り持ったり、遊女の監督、教育係を兼ねた。ベテランの遊女上がりがなった。


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