p2 吉原遊郭の始まり
遊女の名の由来は、古来、神社で巫女として神に仕えながら、歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、歌舞等の遊芸を職としながら、時には春を売ったとされる。浮かれ女(うかれめ)、遊び女(あそびめ)とも呼ばれ、遊女となった。
歌舞伎の始まりとされる「出雲の阿国(おくに)」の「かぶき踊」は、傾き者の茶屋遊びというエロティックな場面を含んでいた。その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ、遊女歌舞伎としてたちまちに流行ることとなる。今日でも歌舞伎の音曲に三味線が用いられるようになったことが何よりこれを証している。
阿国は出雲に生まれ、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となった。また、阿国自身が、遊女的な側面を持っていたともされている。
芭蕉が出会ったこの遊女たちは、まだ旅する自由があった。
廓(くるわ)は文字通り周囲を塀や堀などで囲った一郭を意味する。遊女屋を一箇所に集めたものを遊郭といい、出入りするところは一箇所だけで、吉原では大門と呼ばれ門番がおり、丑三つには閉ざされた。これは治安もあるが、当然、遊女らの逃亡を防ぐ目的もあり、遊郭の遊女らは一郭に閉じ込められた存在であった。
江戸時代、遊郭は幕府公認のものをいい、京、『島原』はじめ、全国で20箇所ほど設けられたという。その中でも一番有名なのが吉原であった。初めに出来た場所は日本橋の近く、よしや葦(あし)が茂っていた所を埋め立てたところから、「よしはら」と呼ばれるようになった。
江戸の町造りのために、関東一円から人足や職人を集めたことや、戦乱の時代が終わって、職にあぶれた浪人たちが仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かった。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して、営業を始めるようになった。
江戸幕府はお膝元にふさわしい町づくりのため、区画整理を度々進めた。庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などは度々移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門を代表として、
1、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
2、偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
3、犯罪者などは届け出る。
等の内容で遊廓の設置を陳情した。
最初は渋った幕府であったが、遊廓を公許にすることで、そこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上のことや、風紀の取り締まりなどができる利点を考え許した。市場の独占を求める一部の遊女屋と、幕府の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まったのである。
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