『遊女記』

北風 嵐

p1 芭蕉の句

『今市宿騒動』という題で時代物を書いた。その中で、遊郭や遊女について触れることがあった。そんなことで、『遊女物語』という題で、時代物を書こうとちょっと、資料を調べてみた。

下手な物語を作るより、そのままを書いた方がよぽど面白いと思った。これは遊女にまつわるエトセトラである。(*は節尾に注釈をつけている)


芭蕉の句に、「一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月」というのがある。その昔、遊女という言葉も知らない頃?「芭蕉さん、なかなか…」と思った次第である。後に『奥の細道』の本文を読んでみると、「遊女と寝た」のではなく、「と」と「も」の違いであった。


芭蕉たち(弟子曽良が同行)が、北国一の難路を越え、宿で疲れ切った身体を早々に横たえていると、襖を隔てた隣の部屋から、二人の若い女の声が聞こえてくる。歳取った男の声も混じっていて、それとなく彼らの話を聞いていると、彼女たちは越後の国・新潟出身の遊女で、伊勢参宮するという。この市振の関まで男が送ってきたのだった。明日は男を故郷の新潟に帰らせることになり、男に預ける手紙を書いて簡単な伝言などを頼んでいた。


「このような白波の寄せる浜の町で、遊女にまで落ちぶれ果て、家もない漁師の子のように住むところ定めぬ身となって、夜毎の客に身を任せなければならない境遇に陥るとは、どんな前世の悪業の報いなのだろうか、哀れなものである」などという遊女らの話し声を聞きながら芭蕉は眠ったのであった。

翌朝、宿を出発しようとする法衣を着た芭蕉たちに、その女二人が、旅の心細さを訴え、旅の同行を願う。

 道が分からずにとて、不便であるだろうと同情しつつも、「私たちはあちこちに滞在する予定が多いので、伊勢参詣をしようとしている人たちにただ着いていけば良いと思います。伊勢神宮の天照大神の守護によって、きっと無事に着けることでしょう」と断って出発したものの、遊女たちの旅路の困難を思うと、可哀想なことをしたという思いが暫く消えなかった。という一文の後にこの句が詠われている。


 それは萩野の盛り、月の澄みきった夜の事であった。芭蕉には「西行と江口の遊女との故事」が思い出され、仮の宿りの人生の、あわれみ深いめぐりあわせの様に思えたのである。

西行の故事とは、天王寺参詣の途中、江口(東淀川区、交通の要所であった)を通り掛かった西行法師が、急な雨降りで遊女宿に一夜の宿を乞うたところ、断られてしまった。

そこで西行法師は、「世の中を厭うまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな」と、詠んで宿主をなじると、意外にも「世を厭う人とし聞けば仮の宿に、心とむなと思ふばかりぞ」(あなたは悩み多い世の中を嫌って出家された方なのに、このような一時の宿に執着されるなと思うだけなのです)と、宿の主は皮肉を込めた軽妙な歌を返して来た。新古今集の問答歌をいう。

二人は意気投合して夜を語り明かしたという。語り明かしただけであろうか?下世話な作家はつい要らぬことを思ってしまう。返歌の主、遊女・妙(たえ)は没落した平資盛(たいらのとももり)の娘だったとされている(江口の君*)。


この話を基に後世、謡曲「江口」が作られている。謡曲の筋は、旅僧が江口の里に来て西行の古歌を懐かしんでいると、里の女が現れ、西行との贈答歌の真意を説き、そして自分は江口の君の幽霊だと告げて姿を消す。里の男が旅僧に、遊女が普賢菩薩となって現れる奇瑞を語り供養を勧めると、旅僧の弔いに江口の君が二人の遊女を伴い舟に乗って姿を見せる。江口の君は遊女の罪業と世の無常を述べた後に舞を舞い、執着を捨てれば迷いはないのだと説き、身は普賢菩薩に、舟は白象となって西の空へ消えて行く。というものになっている。


*「江口の君」は後に、仏門に入ったとされる。現在、淀川堤防沿いに『江口の君堂』の名で知られる普賢院寂光寺がある。

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