第16話 過去

(小金目線)


 

 話し声一つない、音のしない部屋。たしかテレビやラジオなどはなかった気がする。いやあったけど、たぶん壊れたのかな。そして部屋の中は、足の踏み場もないほど物で散らかっていて、よく飲みかけの飲料水が下に転がっていた。畳4畳半ぐらいの部屋であり、エアコンもないので夏は暑かった。

 僕はそこで、夜の1時を過ぎても起きていた。1という数字は好きだったから、時計の針が1になるのを楽しみにしていた。普通の子供なら、もう布団の中に入って寝てるのだろう。

 だけど自分は、ほこりっぽいこの部屋の中で一人待っていた。あの人が帰ってくるのはもうすぐだから。

 それまでは一人大人しく待っていればいい。小さい頃だったけれど、自然とこういう考え方になっていた。  

 

 これは、4~5才頃の記憶か…。


 もう少しだけ、当時流行っていた仮面ライダーの人形を…人形は買ってもらえなかったのでガムテープかなんかで作ったライダー人形で遊びながら待っていると、玄関の鍵がガチャっと解除される。


 部屋の中に入ってきたのは、黒いコートを着た女性。足取りはふらふらしていて、近寄るとなんか臭い。今思えば、酒臭かったのだろう。  

 でも、僕は嬉しかった。だって、お母さんが帰ってきたから。茶髪のロングで、毛先に向かってクルクル巻かれている髪型が印象的だった。

 お母さんの元に駆け寄るといつもハグしてくれる。そして、笑顔で頭を撫でてくれた。それが記憶に焼き付いていた。

 家に父親はいなかった。気付いたときからいなかったから、別に気にもしていなかっただろう。外に出て遊ぶこともなかったし、余所の子どもの家庭環境など知らない。この小さな部屋が、唯一の自分の居場所だったから。

 お母さんは、朝になるといつも眠っている。体を揺すっても起きないので、僕はいつも横で遊んでいたと思う。起きるのはだいたい昼過ぎだ。そして、いつも身なりを整えると、化粧してどこかへ行ってしまう。

 当時の自分では、行き先は知らない。どこで何をしていたのか知るのはこの後だから。

 

 一番覚えているのは、冬の公園。珍しくお母さんと2人で外に出掛けた。夕方頃だろうか。日が沈みそうで、公園には僕とお母さんしかない。ベンチに2人並んで座っていた。何を話したんだろうか。覚えてない。思い出したい。たぶん、覚えてないってことは、楽しい時間だったんだろう。

 今でも覚えているのは、そこでお母さんがたい焼きをくれたことだ。どこかのスーパーで買ってくれたのかな。嬉しそうな顔して袋からガサガサと取り出し、たい焼き一匹をくれた。初めてこんなに美味しいものを食べたから、たぶん自分はすごい喜んだのかな?そのときに、お母さんがまた笑ってくれた。優しい笑顔だった。あの幼い頃の時間の中で、彼女はいつも笑っていた。どんなに化粧をしても、僕を置いてどこかへ行っても、お母さんの笑顔が好きだった。大好きだった…。


 でも、ある日突然、そんな日常はなくなった。記憶では、自宅より広い部屋に、沢山の黒い服を着た人たち。顔も見たことのない人に手を握られる自分。そして、その部屋の前にはお母さんの笑った顔の写真が飾られていた。その当時はよくわからなかった。これが何のことか。なんで自分がここにいるのか。お母さんはどこへ行ってしまったのか。暗い、とても暗い。

 それから僕は、知らない人の、知らない家で暮らすことになった。お母さんの兄と名乗る人物に。

 

 そこからは、あまり思い出したくない。暗い暗い、引き取られてからの時間は真っ暗だった。居場所がない。居場所がほしい。どこにあるんだろう。なんで僕だけこんな目にあうんだろう。ああ…汚い記憶が蘇ってくる。

 今思うと、僕はあの人と一緒にいる時間が、一番幸せだったんだ…

 


「…小金?」



 横から呼びかけられた声で、少し周りが明るく見えてきた。危ない、また過去に縛りつけられるとこだった。  ここはバスの中。自分は今ここにいる。高校生。もうあの頃に戻ることはないんだ。…そうやって言い聞かせる。

 俺の名前を呼んだのは、通路を挟んで右の席にいる佐藤だったようで、なぜか心配そうな顔して見ていた。



「ん?どうした?」



「いや、ただ…泣いてるの?」



「えっ?」



 目に手を当ててみると、確かに水滴が指に付いた。目から勝手に涙が出ていたのか。最悪だな……………………………………………。



 『りょう』



 …あの時のあの呼び方で、懐かしい声音で呼ばれた気がした。

 思わずハッとしてその声の方向に顔を向けると。


 

「小金くん?」



 桜さんだった。逆ハの字みたいな眉で俺を見ている。彼女もまた、俺の変な様子を見て心配しているのか。

 それにしても、あの人の面影を思い出すなんて俺の頭もそろそろやばいな。



「あー…。大丈夫。大丈夫だから」



「ほんとに?エチケット袋貸すよ?」



「いや酔ってるわけじゃないんだけども…。まぁ、貰えるなら貰っておくわ」



 そう言って返すと、桜さんはカバンの中から袋を取り出した。

 いや、エチケット袋なのにスーパーで貰えるような袋はどうなんすかね?もしも汚物を吐いたら、けっこう色分かるよね?



「はい」



「…どうも」



 少し引きつった顔で受け取る。桜さんからくれたものだ。これは大切にしよう。

 すると、安心したのか桜さんの表情がいつもの感じになってきた。かまぼこのようになった目が、嬉しそうに口角の上がった口元が、そして優しそうな笑顔が。

 

 思わず見惚れてしまった。


 笑ったときの顔が、あの人にそっくりで。あの人見たいに笑う彼女から、目を離せなかった。たぶんいつも、俺はそれを感じていたのだと思う。あの人の存在を少しでも感じたくて。

 ただそれを、思い出してしまった…。

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