第11話:至福の一時
そこは、ダークブラウンの四人掛けのテーブルが置いてあるダイニングだった。
落ちついたオークウッド材で囲まれた8畳ほどの部屋に、カウンターキッチンがついていて、もちろんその向こうはキッチンスペースだ。
家具は非常に少ない。先のテーブルセットの他に、壁面収納があり、その一部に花瓶で花が飾ってあった。鮮やかな黄色を見せるヒマワリ、オレンジ色のバラ、愛らしい黄色い花を咲かすミシマサイコ、それらを囲むマウンテンミントの緑が、非常に夏らしい雰囲気を醸している。
その部屋全体が、今は大窓から差しこんだ暮天の陽射しが照らしだしていた。
「では、そろそろ食べようか」
赤い陽射しと共に入ってくる波の音を聞きながら、この家の主はテーブルについていた。
「そうアルネ。ここまで長かったアル……」
そして彼の前には、白地に銀糸が織り込まれた花柄のチャイナドレスに身を包んだ女性が座っている。
見る角度によって、まだ10代にも見えるが、その色香は成熟した桃のような甘い香り漂わせている。彼女は、背筋を伸ばし楚々とした微笑を主に向けた。
それに応えるように主が笑みを浮かべてから、二人は同時にテーブルに視線を落とす。
二人の前には……そう。すっかり準備された、誰もが好いてやまない、日本の夏の風物詩【冷し中華】(コンビニ販売品)が置かれていた。
今や、かき氷やスイカ、流しそうめんなどアウトオブ眼中、夏の食べ物として不動の地位を揺るぎないものにしている存在だ。
その冷たさと、お酢の爽やかさは、まさに暑さ対策の食べ物。
亜熱帯の夜を過ごした二人は、見ているだけで舌の周りに唾液を溜めてしまう。
このような早朝でも食欲がわくのが、【冷し中華】効果であろう。
「では、いただき――」
「ちょっと待つネ、ご主人様」
チャイナ服の彼女は、二つのお団子ができた髪型の頭をかるく傾げ、主の言葉を遮った。
その無礼を別段気にした様子もなく、主は尋ねかえす。
「ん? なにかね、レイ」
「質問していいアルカ?」
「どうぞ」
「……どーして、いきなり三人称で書いているアル?」
レイの登場人物としての分をわきまえない質問に、主は「ふむ」と短く唸る。
「よい質問だね。もともとエッセイというものは散文け――」
「――わかったアル。それ聞くと長くなって、また食べるのが次回に持ち越されそうアル。要するに作者はとことん遊ぶ気まんまんアルネ……」
「いわゆる、アンチテーゼ」
「何に対するか不明すぎるアル。そもそもノンフィクションと言えるあるか?」
「書いている根本的なネタはノンフィクションであり、その説明手法がフィクションであっても全体で言えば――」
「――もう、いいアルネ。食べるアル」
少しうんざり気味に言われ、さすがの主も少し眦をさげた。
しかし、それよりも空腹感が彼を急かすため、すぐに切り替えて彼女の言うとおり食べる事にする。
「いただきます」
「いただきますアル」
二人はかるくお辞儀をして箸をとる。
まず最初に、主が麺を挟んで持ちあげた。
麺に見事に絡んだ汁が、夕日に照らされて琥珀色の光をキラキラと放っている。
やはり、同じコンビニでもここの麺は、汁の絡みがよい。そうあらためて思いながら、主はその様子を恍惚と眺めた。
そして、おもむろに口に運ぶ。
ズルッとひとすすり。
とたん、口の中に爽やかな酸味が広がっていく。
かけ汁の酸味は、やはりコンビニによって違う。あまりに酸っぱいと万人受けしないが、ここのかけ汁は非常にバランスがよい。酸味、甘味、塩気などがどれも強すぎない。
酸味の後は、甘味が舌を包む。
その上をすべすべとした麺が撫でるように走る。
麺はまるで口の中に汁の旨味を運ぶ役割をしていたかのようだった。
もちもちとした歯ごたえを楽しみながら噛んでいると、舌にわずかな刺激が残る。
そう、和がらしの刺激だ。
勘違いしている人もいるかもしれないが、実は辛味は味覚ではない。いわゆるただの刺激であり、もっと言えば「痛み」なのだ。つまり、「激辛好き」はマゾなのである。
しかし、程よい辛味は、味を楽しむための刺激となり食欲を増す効果がある。
「ダシが効いているね。非常にスープがよく絡むから味が楽しめる」
その主の言葉を聞いてから、レイも箸を動かした。
紅を塗らなくとも鮮やかな朱に染まった唇で、彼女も麺をツルッと吸いこむ。
「……アイヤ。本当アルネ。この麺、よくスープに絡んでいるアル」
「これはコンビニ麺の特徴かもしれない。コンビニ麺はかけ汁でほぐされるために、麺によく吸いこまれるのだろう」
「さすがご主人様アル」
そう言ってから、またレイは麺を口に運ぶ。
「……たまに混ざるもやしや、キュウリの食感がまたアクセントになるネ。シャキシャキとしていて、いい感じアル」
「ああ。カラシとは違う、紅生姜などの辛味もまたすばらしいアクセントになるな」
「お酢の酸味が箸を止らせてくれないアル」
「うむ。まさに……蟻地獄……いや、ブラックホールのような、はまったら抜けだせない感がある。エクセレント!」
そのまま二人は箸を進める。
「そして……これだな」
主がつまんだのが、チャーシューだった。
通常、【冷し中華】に入っている肉は、ハム、または鶏のささみなどが多い。
しかし、このコンビニ【冷し中華】には、なんと刻んだチャーシューが入っている。
しかも、意外に量もある。
箸に挟まれてまるで逃げたがるようにプルプルと震えるチャーシューを主は口に迎え入れる。
「……うむ。ジューシー」
「アイヤ、これはすごいアルネ。肉の味が強いから、ただのさっぱりした食べ物ではなく、【冷し中華】が【冷し中華】の枠を飛びだしていく感じアルヨ!」
レイも興奮気味に片手を頬に添えた。
「これだけしっかり肉感があると、味の変化がハッキリわかって楽しいな。まさに味のびっくり箱だ」
「本当アルネ。口に入れる度に、違う食感と味が楽しめるアル」
あれよあれよという内に、二人は半分ぐらい食べてしまう。
今までさんざんじらさせていたこともあるのだろう。レイなどは、一口食べる度に満面の笑みを浮かべながら、幸せそうに箸を進めている。
「そろそろ……こいつの出番か」
そんなレイを見ながら、主は具材の中でも一番の大物をつかんで持ちあげた。
艶やかな白色の中に、満月が埋め込まれたような食材。
「ゆで卵……ここで登場アルカ!」
「ああ。口直し的に、麺を半分ぐらい食べたところで、これを半かじりする」
「半かじり……」
「そうだ。すべて食べてはいけない。残り半分は、クライマックス的に必要なのだ」
「ご主人様……さすが無駄に深いアル……」
「無駄とか言うな……」
少し憮然としながらも、主は卵を半分だけかじった。
白身と黄身が口の中でほぐれていく。
ぷにぷにした白身の中で、濃厚な黄身の味が混ざっていく。
「……うむ。これだな」
「……アイヤ。白身がまた美味いアルネ」
一緒にゆで卵を口にしたレイが、また頬に手を添えた。
「そうだ。不思議なことに、白身が美味く感じるのだ」
「……不思議アルカ?」
小首をかしげるレイに、主はゆっくりと深くうなずく。
「そうだ。白身の部分に実は旨味成分などないのだ」
「ないアルカ!?」
「……その言い方だと『ない』のか『ある』のかよくわからんが……まあ、とにかくないのだ」
「でも、おいしかったアル」
「それこそが、【冷し中華】マジックと言えるだろう。タネは、かけ汁にある。この手のかけ汁は、なんだかんだと言っても味が濃く作ってある。その濃さが口の中にも残り、卵にもついている。それが白身の淡泊な味で滑らかにされることで、旨味として感じるのだ」
「つまり、かけ汁と白身の調和……コラボアルカ!」
「コラボあるよ!」
「す、すごいアル、【冷し中華】。もうその存在そのものが、調理人アル」
「ふふふ……。レイもわかってきたな」
そして二人はさらに箸を進める。
気がつけば、最後に先ほどのゆで卵が残っているだけだった。
仕上げとばかり、それを二人は平らげる。
「ふう……。おいしかったアル。ごちそ――」
「――待てえぇぇい!」
レイは主の言葉で、びくんっと体を震わせてから硬直してしまう。
「なっ……なにある?」
「まだだ……まだ終わりはせんぞ……」
その言葉に、レイは戦慄した。
まさかという思いが、レイの中に浮かぶ。
「ご、ご主人様……まさか……」
「その、まさかだよ、レイ」
「で、でも……それは……それはやめた方が……」
「【冷し中華】を喰らわば、皿まで!」
その言葉通り、主は皿を持ちあげる。
だが、もちろん皿を本当に喰らうわけではない。
そこに残っているもの、それが彼の目的だった。
「ご主人様……かけ汁を飲むのは、塩分的に体によくないアル!」
「うむ。高血圧や糖尿病の方にはお薦めできない」
「せ、せめてお湯で割るべき……」
「すまん、レイ……我慢が……我慢ができないのだ!」
そう謝りながら、主は皿に口をつけて汁をすすり始めてしまう。
「ご、ご主人様ああああぁぁぁぁ!!」
「――くっ! 美味い……この魔力にあがなえん!」
「ああ……ああ……全部……そんな全部……飲んでしまうなんて……あとで喉が渇くアルヨ!」
「やむを得ん!」
「やむを得ないことないアル!」
「私は……私は、このエピローグを迎えないと満足できぬ体となってしまったのだ」
「まあ、このコンビニ【冷し中華】は、中でも塩分は少なめアルが……」
「レイ……」
「なにアルネ?」
「麦茶が欲しい」
「……ほら、やっぱりアル」
こうして二人は、至福の一時を過ごしたのであった。
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