第25話


 弘樹は膝を付いていた。

 晴香の顔が頭から離れない。

 どうしてだ?

 どうしてあんな顔をする?

 どうして倒れた敵を見ている?

 俺は晴香のことを見ているのに。

 俺は晴香のことを見ているのに。

 俺は晴香に見てもらいたいのに!

 晴香の悲しそうな表情が脳裏に焼きつく。

 俺はなんでボクシングをしている?

 俺はどうしてボクシングをしている?

 俺は何が目的でボクシングをしている?


「ワン!」


 突き詰めていけば。

 真剣にボクシングをしていれば。

 晴香は。

 俺を。

 見てくれるんじゃないのか?

 だから今、後楽園ホールの客席にいるんじゃないのか?

 俺を。

 一人でリングに立つ。

 この俺を見るためにッ!


「ツー!」


 一人?

 いいや。

 リングにはもう一人いる。

 リングに立つのは二人だ。

 まさか。

 敵のことを知っている!?

 弘樹は晴香の顔色を確認しようと頭を上げた。さきほどと同じように顔を青ざめ、祈るように両手を組み、痛々しくそこに存在していた。そこで、弘樹はようやく気が付いた。

 違う。

 そこじゃない。

 そうか、そうなんだ。

 晴香は。

 ボクシング。

 好きじゃ、ないんだ。

 それでも来てくれているのは、アイツと同じようにネットのニュースを見て、心配してくれているだけなんだ……。

 試合がはじまる前からそうだった。何度も見ていると言っていたのに、まるで、見慣れていないかのように殴り合いを否定している顔が今も続いている。付き合っている間もずっとそうだった。ボクシングに否定的だった。ちゃんと晴香を見ていればわかることだった。俺は、晴香を見ていなかった。晴香に見て欲しいと願いながらも。俺は、ずっと晴香を見ていなかったんだ。いつも、晴香を知ろうとしなかった。いつも、俺は、俺を知って欲しいと願うばかりだった。フラレて当然だ。俺は。フラレて当然だ!


「スリー!」

「弘樹ぃぃっ!」

「あ、ちょっと! 彩!」


 聞きなれた声がリングに響く。

 弘樹の記憶回路が刺激された。

 描写が再生される。

 じゃあ、私が見といてあげるわよ!

 これは……、そうか、あのときの。

 弘樹の片膝からリングの冷たさが伝わってくる。


「フォー!」


 彩が怒っていた。

 晴香さんが見ないのなら、私が代わりに見といてあげるって言ってんの!

 そんな気もないくせに、よくもまぁ、言ったもんだ。

 弘樹はリングの上で、いつの間にか、笑っていた。


「ファーイブッ!」


 彩が喜んでいた。

 アメリカンドリーム! エイドリアーンって。これよ、コレ!

 あいつ、知ってるのか? あの映画の主人公のロッキー、ニックネームはイタリアの種馬だぜ? しかも判定負け。

 弘樹の拳に力が宿る。


「シィックスッ!」


 彩がふんぞり返っていた。

 ならそれを目指しなさい。

 世界チャンピオンにスパーリングでボコボコにされてるのに?

 弘樹の膝に熱が篭る。


「セブンッ!」


 彩が人差し指を突き出した。

 人生を生きろ。

 でもその通りだ。人生を生きなきゃな。

 弘樹に闘志に火がつく。


「エェィトッ!」


 彩が笑っていた。

 あんたの情けない顔を見に行く。

 それは勘弁だ。さすがにこれ以上、みっともない姿は見せられねぇ。

 男はすくっと立ち上がった。ファイティングポーズだ。戦える。ダメージもほぼない。カウントも8まで休むことができたことで、冷静さも取り戻すことに成功した。一番の要因は、彩の悲鳴だったのだが。


「大丈夫か?」


 レフェリーの声。

 頷く弘樹。


「大丈夫です」


 弘樹の表情を確認し、頷くレフェリー。


「よし、ボックス!」 


 弘樹はステップを踏んだ。

 パンチャイが荒々しく突進してくる。

 すまんな。せっかくの試合。興ざめさせてしまったかもしれない。でもな、これからだ!

 甦った左を繰り出した。パンチャイの顔がはねとぶ。ワン、トゥ、スリー。全て対応し切れていない速い左ジャブ。ステップも入れて、足の親指からひざ、腰、上半身、肩、ひじ、拳へと、きちんと力が丁寧に込められており、一撃目よりも二撃目、二撃目よりも三撃目と威力が増していった。一撃目は顔面に、二撃目は相手が防御しようとしてひたいに、三撃目は完全にガードされた。しかし、そこでさらにガラ空きのボディへと右フックを仕掛けた。自ら飛び込んでの近接弾。パンチャイの身体がくの字に曲がる。グローブから伝わる反動も使い、弘樹は敵の奥手から距離を置いた。パンチャイの左ジャブが飛んでくる。パーリングで払い、得意な位置に陣取った。

 敵から伝わる困惑。

 そりゃぁ、そうだ。

 でも、これはチャンスだ。

 弘樹は、打つぞ、と足だけで威嚇した。パンチャイがフェイントに反応し、左ジャブを打ってくる。弘樹の幻影をかすめる拳。相手の左腕の内側をすべらせるように、弘樹は得意の右ストレートを叩き込んだ。顔面へのカウンター。グローブ越しに伝わる確実な感触。だが、パンチャイは耐えて右ボディを打ち込んできた。腹部への衝撃が弘樹を襲ってくる。歯を食いしばり、弘樹は左フックをテンプルへと目掛けた。ダッキング。左フックが回避されて空を切ると、今度は、パンチャイが右アッパーをコンパクトに振ってきた。上体を反らせることで回避してやり過ごし、ステップバックで距離をとった。パンチャイの鋭い左フックが空振りした。

 あっぶねぇ。

 敵は、鋭いブローを持っている。

 それに、多彩な上下の打ち分け。これはいつも以上にシビアな試合だ。

 ステップは絶やさない。

 リズムに乗れてきた。

 もう一度ダウンを!

 弘樹は踏み込んだ。


『カーン』


 しかし、ここで第1ラウンド終了のゴングが鳴った。

 敵の様子を伺うと、不思議そうな顔をしていた。

 これから両者ともに自軍のスタッフたちのいるコーナーに戻り、一分間のインターバルをとる。弘樹のコーナーの位置は今いるコーナーとは反対側だった。ゆえに、パンチャイとすれ違うことができたので、弘樹は呟いた。


「すまない。これからが本番だ」


 振り返るパンチャイ。

 けれども、弘樹はコーナーへと歩いた。

 そこにはリングの階段を上がるいつもの三人のほかに、リングの下に、沙耶と彩がいた。

 こんなところでなにしてんだ、二人とも。

 差し出された小さなイスに、パンチャイと向かい合うように座り、浅田に汗をタオルで拭いてもらいつつ、護にマウスピースを外してもらった。水を口に入れ、ゆすいだ後、吐き出す。今江が、弘樹の目の前でアドバイスをした。


「アレについては何も言わん。ただ、もう、大丈夫なんだろうな?」

「すみません。大丈夫っす」

「そうか。このまま戦えば勝てる。だが、気を抜くな。相手のコンビネーションには注意しろ」

「はい!」

「弘樹」


 振り返った。

 彩だった。

 なんて顔してんだよ。


「初めてだな。名前で呼んだの。どうりで聞きなれないわけだ」

「え? う、うん」

「大丈夫だ。『俺は強い。だから勝つ。待ってろ彩。勝ってお前に勝利をプレゼントしてやるよ』」


 彩が、驚いていた。


「最後が違う……」

「お前なぁ……」

「弘樹」


 沙耶だ。


「自分を信じて。もっと素直になった方がいいよ。いいじゃない。好きってだけでも、十分な理由だと私は思うよ。他の人に理由を求めるより、自分に正直になったそっちの方が、すごくカッコイイと思うな」

「先輩……。勝ったらメシ、奢ってください」

「勝ったら、その上、沙耶って呼ばせてあげるわよ」

「それは必死に勝たないといけませんね」


 護からマウスピースを受け取った。


「女神たちに囲まれて。幸せ者だな」

「いやそれが浅田さん。振り向いて欲しい人には全然ダメで」

「そんなもんだよ」

「弘樹、いけるな」


 今江の質問。

 弘樹は自信を持って答えた。


「はいッ! 万全です!」


 弘樹はイスから立ち上がり、マウスピースを噛んだ。


 

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