第23話
「沙耶さん……」
「沙耶ちゃんも元気だねぇ」
「先輩らしいっすよ」
リングの上で、弘樹は笑った。
今江会長、浅田、護とともに、ここに上がるのはこれで6回目だ。不思議なことに、何回目であっても、スポットライトがいつもまぶしい。さらに、湧き上がってくるこの高揚感。ボクシングでしか味わえない、最高の身体の状態だ。
浅田が肩を叩き、マウスピースを渡してきた。右のグローブに挟み、足と腕を小刻みに動かす。準備は万端だ。身体も火照り、足も軽い。今日はイケそうだ。
「期待している」
「任せてください」
「ほら、会長も」
「おう。弘樹、お前は強い」
「はい」
「自分を信じろ」
「はい!」
「護も」
「うぃっす。弘樹さん、見てますよ」
「おぅ。見とけ」
「うぃっす」
弘樹は後楽園ホールの客席をぐるりと見渡した。いるかどうかもわからないけれど、探したい人物がいたからだ。そして、その目的は、ありがたいことに達成されたのだった。
晴香は……、いた。
祈るように、手を組んでこちらを見ていた。
嬉しくなり、見つけたぞ、と伝えるために左腕を上げた。
晴香の驚いた表情に、弘樹のテンションが上がった。
「俺、今日、イケるっす」
「頼もしいな」
今江が答えた。
「KOしちまえ」
「決めてみせるっすよ」
そして、マウスピースを噛んだ。
反対側から、パンチャイが入場してきた。しっかりとした足取りで、胸を張って歩いている。どうやら、あちらのコンディションもイイようだ。やりがいがある。弘樹の胸が高鳴った。
ボクシング、好きですか。
結局、答えは聞けなかった。パンチャイがどんな気持ちでいつもリングに上がっているのか、弘樹にはわからない。ただ、強いということは知っている。楽しい試合になるかもしれない。
コーナーに設置された階段を使って、護、浅田が降りていく。
最後に今江が残った。
「いってこい!」
頷き、それに満足したのか、会長もリングを降りた。
四角く青いリング。
一人になった。
深呼吸をする。
小さなジャンプを繰り返す。
リングに足は?
きちんと着いている。
視界は?
良好。
軽く腕を振るう。
リキみは?
修正している。
パンチは?
ベストな拳が打てる。
弘樹は動きを止めた。
目を閉じる。
深呼吸。
ボクシングを一杯に吸った。
肺にたまった後楽園ホールを、ゆっくりと吐き出した。
まぶたを開ける。
パンチャイが、立っていた。
褐色の敵。
手強そうだ。
弘樹は獰猛な笑みを浮かべた。
両者互いにリングの中央に進む。
レフェリーの説明。
近づいてみると、パンチャイは、弘樹と身長が同じくらいか、少し小さいくらいだった。
これなら、リーチはこちらに分がありそうだ。
少ない情報から、作戦を立てていく。
分がありそうな中距離でジャブを主体に視界を奪い、弱ったところを一気に仕留めるか。
通常は中・遠距離で戦い、さらにラウンドをフルに利用しているのだが、今回は別だ。晴香も見ているということから、積極的に行くつもりなのだ。普段とは違う戦い方であるはずなのに、弘樹は、楽しんでいる自分に気が付いた。
そうか。
俺も、ボクサーなんだな……。
パンチャイと拳をちょこんと合わせ、ステップを踏みはじめた。
「ボックス!」
カーン。
ゴングが鳴った。
近づいて、観察する。同じくオーソドックススタイルでパンチャイは、身体でリズムを刻みながら近づいてきた。
なるほど、右利きか。
けれどもこれは四回戦。1ラウンド3分間が、たった4ラウンドしかないのだから、早め早めの展開が望ましい。主導権を握ろうと、弘樹は強気で攻めることにした。
ファーストアタックはもらう!
射程内。ステップと一緒に軽めの左ジャブを打つ。それもダブルだ。反応できずにパンチャイは喰らっていた。相手が対応できてないことを発見し、さらに手数を加えた。そして深追いせずにステップバック。予想した通り、弘樹をリズムに乗らせないためと考えられるパンチャイの左ジャブが遅れて飛んできた。その内側を射抜く、攻防一体のステップ・イン・右ストレート。弘樹の攻撃だけが、カウンターで顔面に当たった。パンチャイの顔がはじけるも、しかしひるむことなく戦士は右ストレートを繰り出してきた。左グローブで受け止め、後ろに下がって距離を保つことにした。
タイ人らしく、タフな選手かもしれない。
だが、この距離なら確実に俺が勝てる!
弘樹は確信した。そこで、相手を誘惑するため、本来の打ち方とは違う、力の方向性がバラバラで未熟な左ジャブをわざと打った。パンチャイからすると無造作な攻撃に見えるはずだ。しかしこれはフェイク。さすがにガードされたが、自信を漲らせた敵の鋭い左ジャブが出された。想定内の動きに、弘樹はこれを空振りさせる。
弘樹はここを好機と判断し、正確な、先ほどとは打って変わって基本に忠実な左ジャブをテンプル目掛けて連打した。ステップ・イン・ジャブ。突然の見えない左にパンチャイは対処できずにクリーンヒットで受け、足が止まった。その隙に、今度は右に回りこみ、左ジャブを追加した。反撃を予想し、ステップバック。案の定、敵の拳が弘樹の影を通りすぎた。
これでどうだッ!
パンチャイが打ち終わる前に、本命の右ストレートを伸ばした。カウンターとしてこの得意なパンチで最大限のダメージを与えるための、見える左と見えない左の駆け引きだったのだ。ファーストコンタクトでしか使えない手だけれども、優秀な選手であるがゆえに、だからこそ少ないチャンスを掴もうとして、引っかかってくれたようだ。
やはりカウンターでアゴにクリーンヒットし、脳が揺さぶられたパンチャイは、糸が切れたように崩れ落ち、尻餅をついた。
「ダウンッ!」
レフェリーが弘樹とパンチャイの間に入った。
カウントが数えられる。
「ワン! ツー!」
ぃよっし、計算通り!
どうだ、格好いいだろ、晴香!
腕を掲げて確認した。
だが。
晴香は。
悲しそうな顔をしていた。
泣きそうな顔をしていた。
俺を、見ていなかった。
敵を、見ていた。
どうして?
どうしてだ?
俺は。
俺は。
「化け物めっ」
「パンチャイ、立てぇ!」
「弘樹、余所見をするなっ!」
「弘樹さん! 相手、立ちますよ!」
俺は。
「シィックス!」
俺は。
「セブン!」
晴香に見てもらいたくて。
「大丈夫か。イケルな。よし、ボックス!」
「弘樹ぃ!」
「はじまりましたよっ!」
「前を見ろぉ!」
どうして。
ボクシングを。
棒立ちの弘樹を目掛けて、パンチャイの、鋭い左が飛んできた。
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