第22話
「姉ちゃん、ビデオ研究ってなに?」
人の少ないホールの客席を大胆に陣取る姉妹は竹上沙耶と竹上彩だ。
沙耶は、弘樹が試合をするということを知ったので、彩に電話してチケットを定価で買ったのだ。
購入時、素直にタダでくれと交渉し続けたのだが、頑として彩が譲らなかったので、実の姉からもお金をぶんどるとは中々やるな、と毒づいたが、笑われてしまい、それが癪に障ったことから、「嫁っぷりが板に付いたわね」とからかってやると、彩があたふたと慌てふためいていた。意外な反応に、沙耶は逆にびっくりしてしまったのであった。
そっか。もう、二ヶ月以上経つものね。
時間の流れの早さに愕然としたのだった。
試合があることを知った経緯はこうだ。ボクササイズがタダで出来ればと、ネットで動画を探しているときに『黒木ボクシングジムのボクササイズ講座』なる動画を発見し、そこで恥ずかしそうに顔を真っ赤にして踊る今江会長とノリノリで踊る女性アルバイトインストラクター、そしてセンターを飾る無表情の弘樹というわけのわからない動画を見て大笑いしたあと、ジムの宣伝とともに試合の情報が流れたのだ。そこで彩の様子見を兼ねて、また今江をからかいに、そして弘樹を激励しようと駆けつけたのであった。
先ほど、その激励とからかいが終わったばかりで、沙耶と一緒にいた彩は、その時に出てきた会話を気にしているようだった。相手選手をビデオ研究できたらよかったのだけれど、資料を集めることができず、ビデオを探すことができなかったので、会長が弘樹に謝っていたという内容だ。弘樹はいつものことだから気にしていない様子だったが、彩が、ショックを受けていたようだった。
「私もあんまり知らないんだけど」
「でも、なんか知ってるっぽいじゃん」
喰い付くなぁ。
苦笑しつつ、沙耶は話しはじめた。
「話の内容から、たぶんだけど、相手選手の情報がちょっと少ないみたいね」
「それだけ?」
「う、うん。たぶん」
なんか攻撃的だな。
「あんた、もしかしてナーバスになってる?」
「は?」
「緊張してるかって聞いてんの」
彩は驚いた様子で、自分の頬に手を当てた。
「あ、うん。そうかもしれない」
「でしょうね」
「なんでかな……」
けれども沙耶は応えずに、別の話をした。
「あの動画、面白かったわよ。あれを提案したのって、彩?」
「うん」
「やっぱり。会長がものすごく恥ずかしそうで笑っちゃった」
「あれでも何回も撮りなおしたんだよ」
「しかも再生数、ぶふっ」
再生数50回。
この数字にも心を和ませてもらった。
「ちょっと! いいじゃん。まだ最初なんだからっ」
「そうね、そうよね。私も見たわけだし……、ぶふっ」
「姉ちゃん!」
「あはは。ごめん、ごめん」
「ったくぅ」
「でも、元気みたいで良かった」
「そ、そう?」
「うん。楽しそうで、羨ましかったわ」
「なら一緒にしようよ」
「あら? ジムに通ってるの?」
「うん。いい暇つぶしにもなるし」
「ふーん。まぁ、いいんじゃない」
「なによそれ。なんか言いたげじゃん」
「なーんにも。でもまぁ、余裕ができたらちょっとだけ顔を出してみるわ」
「あーあ。残念。でも、チケットは買ってね」
「はいはい」
「なによ」
「なーんにも」
「なんか言いたげじゃん」
つっかかってくるなぁ。
けど、まぁ。ちょくらお話してみますかね。
「止めといた方がいいわよ」
「……はい?」
「別の人の方がイイ」
「……わかってる」
「わかってないよ、ちっとも」
「わかってるよ……」
全く。
バカなんだから……。
「他に質問はない? 答えてあげるわよ。なんでも」
「死なないよね。アイツ、死なないよね」
「どうしたの?」
彩の顔が強張っていた。
よく見ると、膝に置かれた手も震えているようだった。
全く。
本当に、バカなんだから……。
小さな手に、自身の手を、そっと重ねた。
「大丈夫。信じてあげな」
「……うん」
「やりたいこと、やってるんだから」
「……うん」
弘樹が入場してきた。
うつむく彩に声をかけようとしたが、かぶせるように、どこからかわからないが、男性の会話が聞こえてきた。
「おっ。気合入ってるな。これは期待できそうだ」
「ちっ。いやな顔をしてやがる」
「ふん。負けた腹いせか」
「負けてねぇ! 負けたのはお前だろ!」
「負けてねぇよ!」
「お前ら、うるっせーぞ! 喧嘩なら外でやれ!」
観客が少ないので、ホールによく響く。
中には、「がんばれよー」なんて、中年男性の応援まで聞こえてくる。
ボクシング独特な色。
沙耶は笑った。
「ほら、入ってきたよ」
「……うん」
「なんか言わないの?」
「……うん」
「全く……。弘樹ー! 負けたらご飯おごりなさいよーっ!」
「ねーちゃん、そりゃぁひでぇぜ!」
「ぎゃはははは!」
「よっ! 色男!」
飛び交う野次に気付いたようで、弘樹が二人に手を振ってきた。
なんだ。
余裕がありそう。
自信満々ってトコね。
「こっちに気付いたよ」
「……うん」
「だめだこりゃ」
弘樹がリングに設置された階段を昇っていく。
スポットライトが照らし、リング中央の弘樹が、輝いて見えた。
ホント。
悔しいくらいに絵になるわね。
沙耶は、彩の手を少しだけ強めに握った。
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