第21話

  控え室。

 軽めのシャドーをするパンチャイの頭から弘樹の言葉が離れない。

 ボクシング、好きですか。

 計量のときに尋ねられた予想だにしなかった一言だ。おかしな男だった。無邪気で、それでいて、たぎらせる血を押さえつけているかのような威圧を持つ戦士。あれほどまでにアンバランスな男は見たことがない。おそらく、根っからのボクシング好きなのだろう。あまりの奇妙さに、思い出すだけで笑みがこぼれた。


「そのへんで止めとけ」


 福浦だった。

 ハゲ頭の会長である徳さんは、タオルや水などのチェックをしている。仕事場で福浦と話をしているときは『会長』と呼んでいたのだが、福浦と徳さんが知り合いだと知り、パンチャイは普段通りの呼び方で福浦と話をすることにしたのだった。

 仲間内で『徳さん』とよばれる彼は、柔和な顔の60歳を過ぎたおじいさん。昔からのジムの経営者であり、かつて、福浦を育て上げた男だった。


「もう少しいいですか。なんか掴めそうなんで」


 左ジャブをダブルで空中に飛ばした。

 仮想敵はもちろん弘樹だ。どのような動きをするのか、前もって録画されていた弘樹の試合が映されたビデオで、ある程度、福浦とともに研究ができた。あの左には誰もがわけもわからず喰らっていた。基本に最も忠実で、モーションが見えにくいのかもしれない。しかし、リズムというものは必ずある。予測し、対策する。できるはずだ。

 空想の弘樹の左パンチが飛んできたので、右に回って避ける。しかし左ジャブは連打され、またサンドバックになってしまった。意を決して、ダッキングをして懐にもぐりこむ。えぐるように左フックをボディに。さらに右フックをテンプル(頭)へ。それからインファイトだ。左の刺し合いに敗れたときの作戦その2。ここまで上手く行くかわからないが、有効ではあるはずだ。

 研究しているうちに、ある弱点が発見できた。打たれ弱いところだ。攻守の技能が高く、それが逆に仇となったのか、一般的な選手よりも脆く崩れる。その上、負け試合では必ず、パンチを警戒しすぎていたり一撃で沈没したりと、臆病な姿勢が見えていた。攻めているときは鬼のような強さなのだが、どうやらムラッ気の強い選手らしい。そこを、叩く。

 パンチャイはシャドーをひとまずやめて、パイプイスに座り、深呼吸をした。


「福浦さん」

「あぁん?」

「ありがとうございます」


 福浦は、トレーナーとして見事だった。ボクシングから長らく身を引いていたらしいが、そんなことは微塵も感じられなかった。スパーの相手もしてくれたり、また、ミット打ちでも今までにないほどに身体が流れるように動いた。地味な練習の大切さも教えてくれたり、まさに、水を得た魚だった。


「今までで最高のコンディションです」

「照れるじゃねぇか。やめろやめろ、恥ずかしい」

「スパーの相手もしてくれて。予想以上に強かったです。というより、KOとか、あれはないでしょ。オレ、試合前なんですよ?」

「がはは。すまん。つい、面白くてな。いいじゃねぇか。前より強くなってんだろ?」

「ええ。それはそうですけど」

「オレだって、元世界ランカーなんだ。まだまだお前みたいなヒヨッ子には負けん」

「現役復帰だってできるんじゃないですか?」

「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか、えぇ!? でもな、そんなことより、今は目の前の試合に集中しろ。相手の得意な距離、傾向はつかんでるな?」

「はい。もぐり込むイメージはできました」

「よし。だが、基本的な作戦はわかってるな?」

「はい。まずは左で様子見。でも、中距離でこちらのリズムがつかめれば、1ラウンドから近・中距離で一気に攻めます」

「よし。警戒すべきパンチは?」

「見えない左と右ストレートです」

「よし。勝つぞ」

「はい!」

「おお。気合十分だな」

「徳さん」


 ジム専用Tシャツを着た徳さんが、ニコやかにパンチャイの肩に手を置いた。


「期待しているぞ」

「徳さんも、ありがとうございます」

「いや。わしだって、本当はお前にかませ犬なんて役割をさせたくないんだ。本当なら、もっと大事に育てたい。お前みたいな才能の塊、誰が見捨てたいものか。だからこそ、勝てるこのとき。この少ないチャンスを、どうか、ものにしてくれ。頼む。わしは、お前がベルトを巻くところが見たいんだ」

「はい。勝ってみせます」

「ありがとうな。弱いわしに付いてきてくれて」

「いえ。徳さんとタイで出会わなければ、オレは死んでいたかもしれないんです。徳さんに出会わなければ、オレは、日本語だってこんなに話せるようになれませんでした。徳さんに出会わなければ家族は……」

「パンチャイ。あまり年寄りを泣かせないでくれ。わしは最近、涙腺がゆるいんだ」

「徳さんは尿漏れを心配したほうがいいですよ」

「福浦! お前、長い付き合いだからってソレはねぇぞ」

「がははは。いいじゃないですか。それよりも今日の試合ですよ」

「適当に流しやがって」

「徳さん」

「なんだ、パンチャイ?」

「頭、光ってます」

「お前まで! 光ってんのは蛍光灯だろうが!」

「ぎゃはは! さすがだパンチャイ! 俺の弟子!」

「一時期、やくざの用心棒になっていた人の弟子になんかなりたくありませんね」

「ぎゃはは! なに、福浦! お前、そんなことしてたのか!」

「あっ、お前! こんなときにバラすなよ!」

「晴香さんとの出会いを邪魔されたんで」

「福浦ー。それはかわいそうだろー」

「いや、だって徳さん。俺いやですもん。コイツが妹と寝るとか。ありえんでしょ」

「いいじゃねぇか。誰だってそうやって歳をとっていくもんだ」

「ですよね、徳さん」

「パンチャイ選手。時間です」


 係員に呼ばれた。

 そうか、もう、そんな時間なんだ。


「よしっ」


 立ち上がり、グローブとグローブを合わせた。

 福浦と会長は緊張した面持ちで見守っていた。

 福浦が、掛け声をした。


「勝つぞ!」

「おおッ!」


 気合を入れて、パンチャイはしっかりと廊下を歩いた。



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