第20話
プロカメラマンの山中は、後楽園ホールの入り口にいた。
今日はボクシングの試合があり、そこでの仕事が入っているのだ。
40歳を過ぎ、ビールっ腹によって動きにくくなった山中は、カメラを抱えてドスドスと歩きつつ、前日の不思議な体験を思い出していた。
月刊誌『ボクシングマシンガン』の仕事で、計量をすることになっているメインイベンターのチャンピオンを写真に収めることになっていたのだが、その出来事は、それよりも前に起こった。頼まれてもいないのに、被写体の魅力に、引き込まれるように『撮らされる』という経験をしたのだ。仕事として、常に『撮りたい』と思う瞬間、また被写体を撮ってきた山中にとって、『撮らされる』という感覚は奇妙なものだった。カメラを持つ手が自然に動いてしまい、本来、撮る予定でないものにシャッターを切り続けてしまったのだ。しかも、後に残るのは高揚感であり、『撮ってしまった』ではなく『撮らせてもらえた』という、全く未知の幸福感にも包まれたのであった。こんなことは初めてだった。
被写体の彼らは前座の前座である四回戦ボーイだ。
一人は松田弘樹。もう一人はタイ出身のパンチャイ。両者ともに特筆するような戦績でもなく、負けが先行している、成績を見るとどこにでもいるような三流選手だ。けれども二人とも『オーラ』というべきものを兼ね備えており、常人にない、一流アスリートのような気配を漂わせていた。次の仕事のこともあるので、さっさと終わらないものかとイライラしていた山中にとって、彼らの魅力は、全てを現実から切り離したアートに映った。写真家としての本能なのか、息をするのも忘れて、ひたすら、フレームの世界へと旅立たされたのであった。
年甲斐もなく、興奮しちまってら。
自嘲していると、なんと驚くべきことに、今日のメインイベンターよりもビッグな人物が目の前に現れた。世界フェザー級チャンピオン、里崎である。
「おぉっ! 里崎くんじゃないか。久しぶりだね」
「山中さん。お久しぶりです」
里崎は礼儀正しく挨拶をした。
二人揃って、先を歩いた。
「どうしたんだい。チャンピオンへの激励かい?」
「いいえ。ちょっと暇つぶしに」
「ははは。それはイイね。気分転換ってやつだね。たまにはそうした方がいい」
「なんですか、たまにはって。まるでボクがいつも金欠みたいに」
「ははは。ごめん、ごめん。でも大丈夫かい? 奥さん」
「山中さん」
「ははは。これは失礼。かわいい奥さんによろしく伝えといて欲しい」
「うちのを鬼と勘違いしてませんか?」
「いやいや。中々威勢のイイ奥さんじゃないか。しっかりしていて頼もしい」
「そう言ってくださるとありがたいです」
「里崎くんは家族思いだからねぇ。いいことだよ」
「山中さんはご結婚されないんですか?」
「そんな予定があれば、こんな仕事はしていないさ」
「そんなことはないですよ。ボクは、山中さんの写真好きですから」
「おおっ。言ってくれるね。なら、誰か紹介してくれよ」
「あっ。やっぱりさっきの却下で」
「おいおい、それだってひどいぞ」
笑いあっていると、里崎に挨拶をしようと、二人の若者が前に出てきた。
どこかで見たことがあるような……。
山中が思案していると、里崎が、若者を紹介してくれた。
「山中さん。こいつら別のジムなんですけど、二人ともスーパーフェザー級のボクサーです。こいつが全試合連続KO中の六回戦の一堂で、こいつが去年の新人王の柴田です。一応、日本ボクシング界、期待のホープと呼ばれているヤツラです」
二人が軽く頭を下げてきた。
だが、瞳はギラギラしており、闘争心に溢れている様子が容易に感じられた。
山中はそんな若者たちの姿に気を良くした。
「いいね、二人とも。やっぱりボクサーはこれぐらいじゃないとね。最近の子は優等生が多いから」
「あっ。お前ら。ちゃんと挨拶しろ!」
「いいよいいよ、里崎くん。ところで、二人はどうしてこんなところに?」
「おい、お前ら。ちゃんと答えろよ」
「いいって、いいって。自然に、自然に、ね。カメラマンとしてはそっちの方が面白い」
「そうですか……。お前ら、山中さんに感謝しろよ」
「うぃっす」
「おぃっす」
「お前らはホンット……!」
「いやいや。で、どうして?」
「気になる試合があったんで」
一堂だ。
イライラしているところを見るに、どうやら因縁の相手が試合に出るようだった。
また、それに柴田が毒づいた。
「ふん。ラッキーパンチ野郎が。何が気になるだ。ほとんど手も足も出なかったクソが」
なんのことやら理解ができない山中はきょとんとした。
そして、そんな彼を尻目に、一堂が柴田の挑発に乗った。
「あぁ!? てめぇこそ疑惑の判定じゃねぇかッ! あぁ!?」
「なんだとぉッ!? オメーは勝負にすらならなかったクソじゃねぇか!」
「んだとォ!?」
「ふん。上等だ。表へ出ろ。KOしてやる!」
「あぁ!? パンチのねぇモヤシが。やってやるよ!」
「うるっせーぞ、お前ら!」
取っ組み合いの喧嘩に発展しそうだった彼らを止めたのはチャンピオンだった。猛々しい気迫に圧倒されていた山中は内心ホッして、話を進めることにした。
「ははは。二人とも、なにやらワケありみたいだね」
「そうなんです」
「里崎くん、知ってるのかい?」
里崎は、腹を立てている若者ボクサーたちに苦笑しつつ、説明をした。
「ええ。二人とも、一人のボクサーに負けたんですよ」
「負けてねぇ!」
「ふん。この期に及んで負け惜しみか。スリップ(試合中に、リングの上で選手が足を滑らせて転ぶこと。ダウンは取られないので、本来はそのまま試合が続行される)で勝ったクソが」
「んだとォ!? ジムの力で判定勝ちしたヤツに言われたくねぇな」
「なんだとぉッ!? オメーこそジムの力でスリップをダウンにしてもらったクソじゃねぇか!」
「あぁ!? ここでやったっていいんだぜ!?」
「ふん。上等だ。病院送りにしてやる!」
「うるっせーぞ、お前ら!」
またもや二人を里崎がたしなめた。
これには山中も苦笑してしまった。
「元気があるのはいいことだからね。いいね、いい。ボクサーとして最高だ。でもなんか、いろいろあるみたいだね。強い人がいるのかな? 今日、出場するチャンピオンかな? それともチャレンジャー? どちらにしたって強いよね。やっぱり憧れとかあるよね」
同意が返ってくるとすっかり思い込んでいた山中だが、しかし、二人はそっぽを向いて黙っていた。明らかに不機嫌であり、同じタイミングで舌打ちをして、また二人でにらみ合っていた。里崎が凄みをきかせて黙らせてはいたが。
あれ、でも今日のメインはバンダム級だから、階級が全然違うよな……?
山中が疑問に思っていると、その様子がおかしかったのか、この中で唯一、全ての事情を知っている里崎が大笑いをしていた。山中は説明を求めた。
「どうしたんだい?」
「いえ、その。山中さんが不思議に思うのも無理ないなって」
「なんだい。なんだか俺だけ蚊帳の外みたいだな」
「いや、すみません」
「まぁ、いいがね。俺も楽しみにしてる試合があるんだ。二人は気にも留めてないだろうけど、魅力的な選手でね。カメラマンをしてきて、初めてシャッターを『切らされた』ほどに、いい素材なんだ」
「おおぉ。山中さんも」
「なんだい。一人だけ、全てわかってるようなフリしてさ」
「すみません。でも、たぶん、山中さんも同じですよ」
「なにがだい?」
「ここにきた、理由ですよ」
「俺は仕事をしにきたんだが……」
「はは。何を言ってるんです。四人とも、同じ目的ですよ」
「なんだい。はっきり言ってくれないか?」
「暇つぶしですよ。それも、最高の、ね」
「確かに。それはそうだ」
おっさんたちは笑いあい、若者たちはブスっとしていた。
ホールの廊下は、いつものとおり、ガラガラだった。
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