第18話
両親はすでに出勤したので、晴香は一人、リビングで朝食をとっていた。兄とパンチャイは二人ともそろって朝早くからロードワークに励んでいた。昨晩、尋常ではない様子で転がり込んできた二人だったが、元気よさげな漢字とひらがなの置手紙を見るに、どうにか復帰できたようだ。手紙を見たときは見慣れた文字と見慣れない文字に驚いたが、ひとまず、晴香は胸をなでおろしたのだった。
テレビではマシンガーZIPとよばれる小アニメが終わったころであり、イケメンニュースキャスターが朝の挨拶をこちらに向かってしていた。つられて「おはようございます」とおじぎをする晴香の手にはこんがりと焼かれた食べかけの食パンがあり、食パンも一緒にニュースキャスターと朝の挨拶を交わした。
ゆっくりと噛んで、租借する。
食パン特有の甘みが口の中に広がっていく。バターやジャムを塗らないでも食べきれる晴香のお気に入りは少し値段が高めだ。けれどもオプションを買う必要もないので、意外とリーズナブルとなっている。それもまた好きな理由の一つだった。
さらに一口。
しっかりと噛むことはダイエットの第一歩だ。満腹中枢が刺激されてお腹が一杯になりやすくなるのだ。兄の受け入りだけれども、本当にそうだから素直に生活に取り入れた。おかげで体型維持に一役買っている。
最後のひとかけらを口に放り込む。
1、2、3……。
きちんと噛む回数を数える。目安は30回だ。確実に目標を達成したところで飲み下して、朝の食事が終了した。毎朝のお供をのせていた皿を片付けて洗い物をしていると、玄関から音が聞こえてきた。二人が帰ってきたみたいだ。
「おかえり」
「ただいま」
振り返ると、兄とパンチャイが汗を垂らして立っていた。兄がシャワーを浴びるというので、パンチャイとリビングに二人っきりになった。イスを引いて「どうぞ」と声をかけると、頭を下げて「すみません」と座ってくれた。なんだか日本人みたいで、クスリと笑ってしまった。パンチャイの顔色も、昨日よりよくなっているのでホッとした。
「ごめんなさい」
「えっ?」
なんのことだろうと首を傾げていると、恥ずかしそうにパンチャイは頭をかきながら、ポツポツと話し始めた。
「あの、昨日のことです……」
「あっ、はい」
「あんな姿見せてしまって……」
「あー、はい」
男の人が泣き崩れる姿は、兄の世界戦での敗戦でしか晴香は見たことが無かった。けれど、不快感なんて全くなく、むしろ、一生懸命さに好感がもてた。また、自身も弘樹とのことで泣いたので、共感できる面もあった。それに、試合前で神経質になっていると想像できたことも、冷静さを失わなかった要因となったのであった。
「でも大丈夫ですよ。なんで泣いてたのか知らないけれど、私もちょっと前に泣きましたし」
「そうなんですか」
「うん。彼氏と別れて。泣いちゃいました」
「そうなんですか……」
いまいちピンと来てないみたい。
そりゃ、そうだよね。いきなりこんなことを言われても、困っちゃうよね。余計なこと言っちゃったな。
後悔していると、その様子に気付いたのか、パンチャイが謝ってきた。
「あっ、その……。妹さん、綺麗なんで。ちょっと不思議で。すみません」
「え、あっ……。ありがとうございます」
うわっ。
綺麗とか言われちゃった。
なんか久しく聞いてない気がする。
「その……。オレの話、してもいいですか?」
「あ、はい。いいですよ」
「オレ、タイ人なんですよ」
「はい。兄から聞いてます」
「じゃなくて。えっと……、あ、知ってるんですか?」
「はい。あとそれと、プロボクサーってことも知ってますよ」
「あ……。オレのこと、知ってる人がいるんだ」
「ええ。知ってますけど……? どうしたんですか?」
「あ、いや。なんか嬉しくて。そんな人、いなかったから」
「そうなんですか?」
「そうなんです。一人ぼっちだと思ってました」
「あ、一人で日本に?」
「はい。ジムの人に連れられてきました」
「それは寂しいですよねぇ」
「あはは……。いや、本当、そうなんです。それで泣きました」
「じゃあ、私と一緒ですね」
思わず笑顔になってしまった。
あっ。パンチャイさんのことを考えると、イケナイことだよね。
ダメだなぁ、と反省していると、予想外に、パンチャイも笑顔だった。
「そうですね。一緒です」
「なんか、すみません」
「あぁ、いえ。それに、本当のことですから。あ、オレの話、続けていいですか?」
「いいですよ」
「どうもです。えっとですね。オレ、日本で働いたお金を、家族に届けてるんです」
「すごいですねぇ」
「いや、そんなことないです。当たり前のことなんで」
「当たり前なんて言えること、すごいと思いますよ」
「あ……、その、ありがとうございます」
「どういたしまして」
すごく低姿勢な人だなぁ。
謙虚というか、珍しいよね。
「それでですね。昨日、タイの知り合いに会ったんです。でもその子、オレからしたらあまりよくないことをしてお金を稼いでたんです。それで注意したんです。よくないって。でもお金のためだからって、その子もタイに仕送りしているらしくて、結局、何もできなくて。オレもその子も、貧民層出身で。家もなくて明日の食事にも困っていた場所で。なんとかしてあげたかったんですけど、自分の無力さが悔しくて、つい昨日みたいなことになってしまいました。すみません」
「いいえ、そんなことないですよ。それに、すごいと思いますよ」
「えっ。どうして?」
「パンチャイさん、もっとみんなを救いたいって思ってるってことですよね。ツライ状況を、なんとかしてあげたいって。でも、今の自分ではそれが難しい。だから悔しいわけで、それって、もっと救えるようになろうって思ってるってことですよね。ボクシングだから、もっと強くなるとかチャンピオンになってそのお金でみんなの暮らしを良くしたいとか、そんなところかな? それとも、警備員の仕事で出世して、かな? わかんないですけど、でも、一生懸命なことは伝わってきましたよ?」
「あ……、その……」
「だから、すごいなって。尊敬できます」
「あ、あの、あの。あ、ありがとうございます!」
「ふふっ。真っ赤ですよ、顔が」
「あぁ、いや、その……」
「なんか、ごめんなさいね」
「いや! その、そんなことはなくてですね。その……、えっと……、試合! 試合、見にきてくれませんかっ。あの、その、福浦さん、トレーナーになってくれるって話がジムにも通りましたし、その、チケット、福浦さんの分、余りましたから、その……、それで」
「大丈夫ですよ。チケット、持ってますから」
「えっ、あ、そうなんですか。それなら……」
「はい。行きますよ」
「あ、ありがとうございます!」
「お前、パンチャイよぉ。俺への態度と明らかに違ぇよな、ああ!?」
あ、兄さんだ。
シャワーから上がったみたい。
「お、お義兄さん!?」
「お前、今、絶対漢字違ったろ」
「いやいやいや。そんなことはないです。漢字なんて書けませんから」
「嘘付くな! 小学生用の漢字ドリルを持ち歩いているくせに」
「あぁ! ご無体な! ここで暴露しなくたって!」
「全く、変な日本語ばかり覚えやがって。着物系のAVの見すぎ――」
「あー! あー! あー!」
「晴香、お前、気をつけろよ。コイツ試合前でナーバスになってっから、ナニするかわかったもんじゃねーぞ」
「パンチャイさんはそんなことしなさそうだけど」
「ですよね! そうですよねっ!?」
「いいや。わからん。コイツはこれでいて、かなり好戦的なファイトスタイルだからな。隙があれば持ち前のハングリー精神でとことん行くぞ」
「なんてことを、お義兄さん!」
「ほら、すぐこれだ。おい、さっさと仕事に行くぞ。今日はそれが終わってからジムだかんな。んで、トレーニングが終了したら、お前はあのボロアパートに戻れ。晴香の身が危ない」
「えッ!? そんなっ! せめて携帯の番号でも……!」
「お前、携帯もってねえじゃねーか。おい、行くぞ。時間だ」
「そ、そんなー!」
パンチャイが涙目で手を晴香へと伸ばし、「あー!」と叫びながら首根っこをつかまて引きずられていく。
あ、うん。
なんていうか。
元気が出てよかったね……?
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