第17話

  ナーバス。 

 6畳一間、風呂なしトイレなしのアパート。

 仕事もなく、たった一人で壁に寄りかかるパンチャイは、タイの家族からの手紙を読んでいた。

 ボクシングで下りた興行ビザのおかげで日本に留まって働くことができるのだが、それによって出来た賃金を家族へパンチャイは仕送りしている。そのおかげで、なんとか生計を立てて暮らすことができているという内容だ。前回は住まいを確保することができたらしいのだが、最近では中古の冷蔵庫を購入できたらしい。感謝の言葉が並べられていた。

 元気でやれているみたいだ。

 良かった、とパンチャイは安堵した。

 タイの通貨はタイバーツとよばれ、1円に換算すると、約3バーツとなる。ボクシングと警備員のバイトで入ってくる賃金は月に20万円程度なので、タイバーツにすると約60万バーツ。タイの大卒初任給の平均が1万5000バーツであり、かつ、貧民層の彼らはそれよりも大幅に下回ることになる。つまり、彼らにとってパンチャイの稼ぐ金額は大金であり、パンチャイは家族で一番の稼ぎ頭なのだ。とはいっても、パンチャイ自身の生活のこともあるので、できるだけ節制して、家族の下へと多くの金額が送れるように努力していた。だからこそのボロアパートだ。しかし、雨風さえしのげれば天国だ、とパンチャイは考えている。

 けれど、心はいつも雨風に晒されていた。

 震える手に持つ手紙が、ぽつぽつと、濡れる。

 日本語は必死になって覚えた。日常会話ならば日本人と変わらないくらいにまでできるようになった。ひらがなも覚えた。漢字はまだ勉強中だ。十代の青年が、愛する家族のために、たった一人で、一生懸命。結果、福浦という友人も得た。友人というよりも、もはや、ボクシングトレーナーのようなものだが、それでもパンチャイにとってはすごくありがたい人物であった。

 だが。

 だとしても。

 心の空虚は埋められない。


「帰りたい……」


 家族と一緒に住みたい。一人ではなく、知り合いも友人も暖かい兄弟もいる、あの地へ。


「帰りたい……!」


 屋根しかない、吹きさらしの木造建築のジムで、よれよれの、中身のあまり入っていない補強ばかりのサンドバックを叩きたい。笑顔で。仲間と一緒に。暖かい日差しに囲まれて、ムエタイやキックボクシングが主流の中、ボクシングをしている奇特な仲間たちと一緒に、あの時間が経ちすぎて碌なメンテナンスもできていないイカレたリングの上で打ち合いたい。格闘技で一攫千金を狙うことでしか生きる道のないみんなと一緒に……!


「うぅ……ッ」


 ここでのボクシングはタイよりも金になる。才能を買われて日本へこれた。しかし、待っていたのはピエロ役。わざと負けることによって、ほかの日本人よりも少し色をつけてもらえる。スパーリングも実戦も、そうして戦ってきた。仲間と築き上げてきたボクシングに嘘を付いて。家族のためにお金を稼ぐという理由で上書きして、ここまでやってきた。が、一人なのは変わらない。

 ぽたぽたと、何かがこぼれる。

 さみしい。

 肌が凍てつく感覚に見舞われる。


「帰りたいッ」


 次の対戦相手も日本人。金をもってるくせに、遊びでボクシングなんかに手を染める、愚かな日本人。そんなことをしなくたって生きていけるはずだ。わざわざ格闘技しなくても、日本人には知的で高度な仕事がたくさんあるじゃないかっ。くそっ。くそッ。クソぉッ!

 わかってる。だからオレに仕事がある。だから家族が養えている。だからオレは……ッ!


「うぅぅ……ッ。くそぉ」


 松田弘樹。今回は、勝て、と言われた。もちろん勝つつもりだ。福浦さんによれば、相手は「負けろ」と言われることはないらしい。しかし、肝心なところで気持ちが前に出ず、負けてしまうという。戦う覚悟がないヤツのようだ。でも、人はわからない。突然、戦士に成長することだってあり得る。反対に、オレは、こっちにきて本当の負け犬になっちまった……。


『ピピピピ、ピピピピ!』


 突如、目覚まし時計が鳴った。壊れていて、午前も午後もわからなくなった、7時になると必ず鳴きはじめる時計だ。今は夜で、どうやら飯の時間だ。

 コンビニに行かないと……。

 パンチャイは、ペラペラの財布を持って外へ出た。

 ふらふらと。

 頼りない足取りで。

 空はどんよりと曇っていた。

 歩けども歩けども、故郷ではあんなにも綺麗な星空が、ここでは全くみえない。いつも排気ガスが神秘的な明かりを遮断しており、とても同じ夜空が広がっているとは想像ができなかった。やはり、オレは一人だ。パンチャイを孤独にさせるには十分の虚無感があった。

 しかし、コンビニはいつもひどく明るい。

 目を細めながら近づいた。


「ありがとうございましたー」


 コンビニのドアから若い女性が現れた。

 東南アジア系の派手な外国人だった。

 すれ違う。

 外国人だ、なんて驚くとは。オレも日本人みたいな感覚になりつつあるのかな。

 ホームシックになりかけていたパンチャイは自嘲した。コンビニに入り、真っ直ぐにおにぎりのコーナーへと歩いた。しかし、何か違和感があった。どこか懐かしい香りがしたのだ。

 なんだ。

 なんなんだろう、この感覚。

 故郷を想っていたからこそのあいまいなモノではない。確実な、古びた記憶。

 パンチャイは、ハッとした。

 ブーアだ!

 友人の妹、ブアポーン。一緒にボクシングをしていたアイツの、妹だ!

 パンチャイは駆け出した。

 まだ。

 まだ追いつく。

 なんでこんなところにいるのか知らないけれど。

 あれは。

 あの顔は。

 ブーアだ!

 後ろ姿が見えてくる。

 パンチャイは叫んだ。


「ブーア!」

「……えっ?」


 振り返る顔は、まさしく、ブーアだった。

 化粧が濃く、服装も派手ですぐにわからなかった。しかし、近づいてみればはっきりとわかる。彼女はアイツの妹だ。どうしてここにいるのかわからないけれど。本当に、ブーアだ。


「オレだ、パンチャイだ!」

「パンチャイ? もしかして、あの?」

「そうだよ! ハハッ。どうして日本に?」


 が、パンチャイとは対照的に、ブーアの表情は暗い。


「……あなたと同じよ」

「そうか! 看護士にでもなれたのか!? 日本からの援助があるもんなっ。それにその格好……。ハハッ。やったな! 頑張ってるんだなっ」

「何を言ってるの? 私たちにそんな金があるわけないじゃない」

「どうしてだよ。看護とか介護とかで、就労ビザが下りたんじゃないのかよ? じゃなきゃ……」

「あなたはどうなの? もしかして」

「そうだよ。ボクシングだよ! それで……」

「そう。よかったわね」


 ブーアの表情は変わらない。

 いいや、怒りが孕んでいるようにも思える。

 パンチャイの頭の中に、疑問がわいた。

 派手な服装。

 濃い目の化粧。

 上手くいっているように見えるパンチャイへの怒りの視線。

 やがて、パンチャイは一つの結論を導き出した。ブーアは、就労ビザで日本に来たわけではないのだと。だとすると、観光ビザを使うことが考えられる。しかし、観光ビザを使って、観光をするほど裕福な家庭ではないという実情を踏まえると、答えは自然と辿り着く。

 売春!

 ブーアは身体を売って、お金を稼いでいる!?


「まさか……、ブーアは売春を」

「そうよ。日本は黄金の国だから。それに、ホステスも割といいの」

「ダメじゃないか! そんなことをしたら――」

「じゃあなによッ! 代わりにお金を届けてくれるの!? みんなに! 家族のみんなにッ!」

「それは――」

「ほら、あなたも周りの日本人と一緒。言葉だけで、何もできやしない。私はちゃんとやってるわ。この身体一つで、ちゃんと!」

「でも、ビザが切れたら……」

「そうよ。強制送還よ。でも、その間は稼げるわ。それも、ずっと多くのお金を! いいわね、あなたは。いつ警察につかまるかビクビクしながら毎日を過ごすことなんてないものっ」

「まさか、ビザはもう……」

「……仕事の時間だから」


 ブーアは、パンチャイに背を向けて歩き出した。


「待ってくれ! ブーア、待ってくれ!」


 ブーアは振り返らない。

 己の道を進んでいく。

 なんでだよ!

 くそっ。

 くそッ。

 くそぉッ!

 パンチャイは悔しかった。

 目の前の電柱。

 拳を振りかぶった。


「ちくしょぉぉぉッ!」

「やめろ、パンチャイ!」


 後ろから羽交い絞めにされた。

 誰だ!?

 誰でもいい!

 殴らせてくれッ!

 殴らせてくれッ!

 殴らせてくれッ!


「殴らせてくれェッ!」

「やめるんだ、パンチャイ! ボクサーだろう。プロボクサーだろう!? 俺だ、福浦だ! プロボクサーが拳を痛めてどうするッ!? 試合前だろうッ!?」

「ふく、うら……さん?」

「そうだ! 福浦だ!」

「福浦さん! お願いだッ! セコンドについて、いや、トレーナーになってくれッ! 頼むッ。限界なんだ。もう、一人は限界なんだよぉぉぉッ!」

「わかった! わかったから! 大丈夫だ、俺がいる。俺が付いてる!」

「ちくしょおぉぉぉぉッ!」


 慟哭。

 一人の青年の悲痛な叫び。

 霞がかった月は、無表情で、彼らを見下ろしていた。



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