第16話


「ただいまー」 

「で、勝ったの?」


 結局あの後、里崎からボコボコにされて2DKのアパートへ帰ってみれば、玄関で開口一番にこれだ。

 弘樹は靴を脱ぎながら、世界チャンピオンとスパーリングしてきたことを知っているはずの笑顔の彩に向かって、ため息を吐いた。


「晴香だったらなぁ……」

「あぁんっ!?」


 ご立腹な彩。

 けれども弘樹はぶれない。

 お帰りとかお疲れとか頑張ったねとか。

 労いの言葉の一つや二つが欲しい弘樹はリビングまで歩きながら呟いた。


「心温まる一言が欲しかったなぁ……」

「なに、あんた負けたの?」


 トテトテとついてくる彩。

 何を当たり前なことを、と弘樹は憤慨した。


「相手は世界チャンピオンだぞッ!?」

「張り倒すぐらいのことはしなさいよ」

「お前は……。いや、だけど、チケットを1枚買ってもらったよ」


 冷蔵庫を開けて冷奴と茹でた鳥のささ身を取り出し、テーブルに陣取った。目標は58.9kg。ダイエットというよりも、いわゆる減量というやつで、ボクサーは、試合前には必ず計量という体重審査をくぐり抜けないと試合の許可が下りないのだ。それは階級ごとにわけられており、弘樹のSフェザー級は先ほどの数字が制限体重となる。スパーリングパートナーの里崎はフェザー級なので、一つ階級が下がり、57.1kgが目安となっている。たった約3㎏の違いだが、しかしそれは、プロボクサーにとってはものすごく大きな壁なのだ。

 同じくイスに座る彩はもう食事をし終わっている。減量中の弘樹が、彩が逆に気を遣ってしまい食べれなくなるだろうと考慮して、先に食べてもらっていたのだ。思ったとおり最近あまり食べれてないようで、鍋の中の残り物などを見れば、今日もそうだというのが明らかだった。逆に全部食べてくれた方が目の毒にならずに済むのだが、これはあとで相談したほうがいいのかもしれないと弘樹は感じていた。が、今はそんな気分ではなかった。


「へぇ、よかったじゃん。どうして?」

「1ラウンドKOされなかったご褒美」

「なっさけなッ」

「いや、さぁ。もうちょっと……。まぁ、いいけど。スパーしはじめは俺の左に手こずってたからなんとか形にはなってたんだよ。でも攻略法を思いついたみたいで、左の刺し合いすらできずに攻め込まれるようになったんだ。でも今日は里崎さん、俺のインファイトを褒めてくれたけど。あー、やっぱキツイわ。俺には中・遠距離ぐらいがちょうどイイ。ジャブもストレートも出しやすいし。……って、わかんないか。ごめんな」

「いんや。楽しそうだからコッチも嬉しいよ」


 と、これは予想に反してにこやかに聞いてくれていた。

 無理をしているのか知らないけれど、今の弘樹には、話を聞いてくれることがありがたかった。


「でもインファイトってなに?」

「接近戦のこと。はじめの……って、ボクシング漫画もわかんないよな。そうだな。近いところからのパンチと、遠いところからのパンチ。どっちが強いと思う?」

「近いところ?」

「だよな。そういうこと。だから単純に、怖いわけ」

「ボクサーだって怖いんだ」

「そりゃあそうだよ。怖い思いをしながら、二人ともリングに立ってんのさ」

「なんで? やらなきゃいいじゃん。それなら……」

「どうしてだろうな。人によって違うと思う。金とか名誉とか、女とか」

「あんたは女ね」

「からかわないでくれよ。結構恥ずかしいんだから」

「でも本当に、その三つはボクシングして手に届くの? 私にはそうは思えない」

「はっきり言うね」

「だってそうでしょ? お金もそうだし。名誉はわからないけれど、ボクシングチャンピオンなんて言われても、それよりテレビに映ったことがあるとかファッション雑誌に載ったとか、そっちの方がまだいい。少なくてもほとんどの女の人はそう。ボクシングって、聞こえはいいかもしれないけど、だって……」

「そうだな。そうかもしれない」

「だったら!」

「結局、好きなんだよ。みんな。殴りあって、馬鹿みたいに見えるかもしれないけどさ。好きなんだよ、ボクシングが」

「ずるいよ……。そんな顔するなんて」

「ん? なんて言った? ごめん、小さくてわからなかった」

「お疲れ様って言ったの! 怖いのに、よく頑張ったねって」

「そっか。ありがとう。予想してなかっただけに嬉しいよ」

「私をなんだと思ってるわけ!?」

「気を遣ってくれる、やさしくて可愛らしい女の子だよ」

「嘘くさッ!」


 本当なんだが。

 恋愛感情はないってだけで。


「でもさ」

「うん?」

「あのチケット買ってくれた人、言ってたよね? ほら、一緒に売ったじゃん、チケット」

「あぁ、あの人ね。外でシャドーしてたときの」

「そうそう。次の対戦相手のことを知ってた人」

「パンチャイね」

「うん。かませ犬ってどういう意味? あんたと同じって、どういうこと?」

「そうだな……。一言にするなら、負け役、かな」

「まけやく? まけって、勝負の勝ち負け?」

「そう」

「ってことは、負ける役割の人ってこと?」

「そう。厳密には違うんだけど」

「なによそれッ! 真剣勝負なんじゃないの!?」

「そう。真剣勝負だ。だから、弱くて確実に勝てそうな相手と戦うんだよ。花道を作るための踏み台。それが、かませ犬だ」

「そんな……。じゃあ、あんたと同じって、もしかしてあんたも」

「そう。俺もかませ犬として売られてる」

「なによそれッ! 負け役とか、あんまりじゃないッ」

「そうでもない。俺は、感謝してるよ」

「どうしてよ。勝たせたい人のために用意される踏み台なんでしょ?」

「そう。でも、世界チャンピオンになるんだろ?」

「う、うん……」

「それなら関係ないさ。いずれ当たる人たちと、ほかの人よりも早く戦えるんだ。いいことじゃないか」

「でも……」

「それにさ。好きな人たちに囲まれて、好きなことをする。最高じゃないか」

「それでも」

「うん?」

「それでも、ボクシング、好きなの?」

「うん。好き」

「そっか……」

「だいたい。負けるなんて決まってないんだよ。俺の戦績知ってるか? 5戦2勝(1KO)3敗だぜ?」

「カッコわる」

「うっせ。でも、こうやってかませ犬が噛み付きまくって、チャンピオンにまでなった人だっているんだ。俺にだってできるさ」

「そう……。そうだね」

「おぅ。アメリカンドリームだっ」

「それは恥ずかちい」

「いいじゃねーか。俺は気にいったぞ。アメリカンドリーム」

「だー! 無理っ。もうやめっ」

「ははは。だからさ、助かったんだ。この言葉に」

「そうなの?」

「そう」

「ならよし」

「なんじゃそりゃ」

「いいじゃん。でも、戦う人もアレなんでしょ? それならどうなるの?」

「そりゃあ、真剣勝負だよ。チケット買ってくれた人がいうには、A級ボクサーをスパーでKOしたらしいけど」

「それって強いの?」

「すごく強い。俺がC級だから、上のレベルの、また上のレベルの人を倒したってことになる」

「なんでそんな強い人が負けてるの? わざと負けてるの?」

「3戦3敗。ジムにもいろんな事情があるからなぁ……。お金もからんでくるし。負けなきゃいけなかったのかもしれない」

「勝てるの?」

「わからん」

「なによそれ。勝てるっていいなさいよ」

「なんでだよ」

「いいから、ほら。『俺は強い。だから勝つ。待ってろ彩。勝ってお前に勝利をプレゼントしてやるぜ。愛してるよ、彩』って。さん、はい」

「誰が言うかッ!」

「ノリが悪いぞー」

「ったく、俺は強い。だから勝つ。ほら、言ったぞ」

「最後がないぞー。『好きだ、愛してる。今夜一緒に寝ようか。コンドームもここにあるぜ。げへへ』って。ほら。さん、はい」

「誰が言うかッ! ってか、なんでお前俺のゴム持ってんの!?」

「世界チャンピオンに勝ったらヤラせてあげようかと思って」

「ごまかすなッ! お前、俺の部屋を漁ったろ!?」

「なんの楽しみも無い部屋でした……。あったのはコレだけ」

「経験ないくせにうるせーよッ! 返せよ!」


 二本指に挟まれたアレを、素早く奪い取った。

 あっ、ってお前。ボクサーなめんなよ。


「使うアテもなくなったくせにぃ」

「るせー。俺は晴香とよりを戻すんだよ」

「またそれかい……」

「なんだよ?」

「いんや。なんでもございませーん」

「喧嘩売ってんのか?」

「でもさ」

「あぁ? なんだよ」

「その人も」

「うん? パンチャイ?」

「そう。その人も、たとえ試合で負けろって言われてても、あんたみたいにボクシングが好きなのかな?」

「……わかんね」

「あんただったら、耐えられる?」


 好きだから。

 いや。

 好きだからこそ、どうなんだろうか。


「……わかんね」

「好きだったらいいね」

「そうだな……」


 タイ人で、ボクシングセンスが並外れているという。

 どうなんだろうか?

 一人で外国に来て、ボクシングをするということは。

 今の弘樹には、いくら考えてもわからないことだった。





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