第15話
スパーリングとは練習試合のようなものだ。
弘樹は週に一度、別のとあるジムでスパーリングをさせてもらっている。弱小ジムではスパーリングパートナー探しが難しい中、ありがたいことに、弘樹は相手側から自身を指名してパートナーに選んでもらえるという幸運にめぐり合えていた。実力を認めてくれての指名なのでそれが自信にもつながっている。そして、ちょうど、今日がその日だった。弘樹は一人で荒木ジムに来ていた。
「お願いします!」
「おぅ。こちらこそよろしくな」
両者ともにヘッドギアをかぶり、マウスピースを噛んでいる。ヘッドギアとは、ボクシング用ヘルメットのことで、マウスピースとは歯をガードするための防具だ。グローブも練習用のものとなっていて、試合用のものよりも威力が下がる。
対戦相手はフェザー級の世界チャンピオン里崎。スーパーフェザー級の弘樹よりもワンランク階級が下がる。階級とは、体重別のランク付けのことで、つまりは弘樹の方が身体が大きいということだ。チャンピオン側は、より体重が重くそれでいて速いボクシングを得意とする相手を希望していた。そんな折、弘樹の試合を見たチャンピオンが名指しで呼んでくれたのが始まりだ。弘樹にはまたとない機会だった。
ゴングが鳴った。
弘樹はステップを踏んだ。対してチャンピオンは、リングに足を付けて様子を伺っている。KOキングと呼ばれている里崎ならではの、前衛姿勢だった。じりじりと追い込んでからの連打。そして脳を揺さぶる一撃。里崎の得意コースだ。
近距離は敵の好きな位置。弘樹は離れて戦うことにした。
だが、いきなり左ジャブが飛んでくる。毎度ながらフェザー級とは思えない威力にぞっとしながらも、弘樹は右に避けた。狙っていたのか、左フックがガードの上から叩きつけられる。チャンピオンの右手から距離を作りたかったのだけれど、そのたった一撃で真正面にさせられてしまった。
まずいッ!
右フックが発射される。反射的に上半身を反らしてかわした。速い左ジャブを連続して出して、さらに右ストレートも出すぞと肩で威嚇することでガードを誘う。相手の動きが一瞬だけ止まった。一旦離れて体勢を整える。しかしチャンピオンはそれを許さない。瞬時にフェイントだと気付かれ、追撃された。
速いッ。
くそッ!
インファイトしかねぇ!
好きな位置ではないとはいえ、打ち合わなければペースを持っていかれてしまう。敵のワン、ツー、スリー。ガード越しでも伝わる破壊力。しかし、スリーの右フックにタイミングをセットして、右のボディをダブルで放った。ワンは肘をたたんで、ツーはそれよりも少し角度を広げて。できるだけ離れたかった。功を奏し、その上、左腕でガードさせたために、右利きのチャンピオンによる早い左パンチ攻撃を抑えることに瞬間的だが成功する。そこで強めの左ジャブを出した。これも距離を作るためだ。けれどもダッキング(上体を前に屈めてかわす防御技術)されて先ほどできたわずかな差を縮められ、膝のバネの乗った左ボディが飛んできた。かろうじて右腕でガードすると、今度は右のボディだ。こちらもガードしたが、これで再び相手の得意な位置にもっていかれた。
またインファイトかよッ!?
開始から今まで、常にチャンピオンの土俵だ。
どこかで展開を変えなければならない。
打ち合いの末、敵の左アッパーがきた。狙いはストマック(胃)だ。
ええぃッ、一か八かだ!
ストッピング。掌で相手のパンチを受け止めるテクニックだ。パンチを払い落とすパーリングよりも攻撃に転じやすいが、反面、受け止める分だけ時間も拳も使ってしまう為に防御面で心もとなくなってしまう技。だがしかし、そうでもしなければこの人は止まらない。それに、パーリングではストレート系にしか対応できない。左手でアッパーを押さえ、カウンターとして右フックをかました。クリーンヒット。
よし、当たった!
しかし左頬に衝撃が与えられた。
相打ち。
弘樹だけがよろけてしまった。
どうしてだよッ。
こっちの方が階級は上だぜ!?
動揺に、すかさずチャンピオンが連撃を加えた。テンプルからボディ。ボディからテンプル。シャトルブローと呼ばれる、上下のコンビネーションだ。ガードを固めるが、上から連打される。相手がリズムに乗り出した。
くそッ。
腹をくくれよッ!
自分に叱咤し、ダメージを覚悟で相手の左右のブローに合わせてアッパーを叩き込んだ。カウンターで決まり、チャンピオンの顎が跳ね上がった。すかさず速いジャブにステップバック。自分の距離ができたところでステップイン・ジャブを小気味良く放った。そして右ストレート。相手の足が止まったので、今度は足のみのフェイントをかけてさらに敵の時間を削り、左へ回り込んだ。ステップイン。速い左ジャブを続けるが、パーリングされた。そこで、突然、チャンピオンの身体が大きく見えた。
なんだッ!?
……雰囲気がやべぇッ!!
倍増された迫力から繰り出される敵のブロー。スウェーでよけるも、ステップを踏まれた。さらに左のレバー打ち。弘樹はブロックに成功する。が、力ずくで無理やり押し込まれた。弘樹の体勢が崩れてしまう。敵の踏み込み。テンプルへの右フック。肘を折り曲げてブロッキングした。ブロッキングとは、たたんだまま肘を前方に突き出して頭を守る、フックに有効な防御テクニックだ。しかし、威力は吸収できるが、とある欠点がある。ボディが甘くなってしまうのだ。案の定、野生的なボディブローが飛び出ていた。クリティカル。衝撃が襲ってきた。さらに頭へのパンチがくるも、これはブロックした。だが、返しのボディをガードしようと対応すると、これがなんとフェイントで、左フックをテンプルにくらってしまう。ピンポン玉のように弾ける弘樹の身体。しかし倒れることを許さない。右、左。ガードはしているものの、問答無用で叩きつけられる。ラッシュの末、ついに弘樹はダウンした。
「チッ。クソッ。いいのもらって思わずキレちまったぜ。チャンピオンのくせに、情けねぇ」
見下ろす里崎が愚痴をこぼした。
弘樹は、ゆっくりと時間をかけて立ち上がった。
そのファイティングスピリッツに驚くチャンピオン。
「まだ、10カウント以内っすよ、里崎さん」
「お前……。強くなったな。上手いだけじゃなくなった」
「俺にも目標ができたんで」
「へぇ。いいぜ。残り1分か。耐え切れたら、チケット買ってやるぜ。試合決まったんだろう?」
「いいんすか? 奥さんに怒られますよ?」
「お前がダウンしなかったらの話だ」
「逆にダウンを奪ってやりますよ」
「面白れぇ! それだったら残りのチケットも全部買ってやる!」
「薄い財布を破産させてやるっす」
「やってみろ!」
そして。
弘樹はステップを踏んだ。
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