第14話

 数日後。

 夕方前。

 北欧風の、ふんわりとした色合いの淡い部屋にドカンと中央に置かれたハート柄の刺しゅう入りベッドにうつぶせになり、晴香は弘樹との喧嘩を後悔していた。

 あのとき、なんで弘樹にあんなことを言っちゃったんだろう。もう少し、冷静になれてれば違ったかもしれないのに。勢いで別れるなんて。本当は違ったかもしれないのに。誤解だったかもしれないのに。でもなぁ……。


「あー!」


 ゴロン、と180度回転。


「なんで女と一緒に歩いてるんだよぉ……」


 それも親しげに。

 ため息が漏れる。

 あの馬鹿と一緒に歩いていた女の子の笑顔が瞼から離れない。頭上の枕を引き寄せ、握り締めた。枕が力に沿って変形する。無性に腹が立ち、持ち上げて、ぽん、と上に投げた。重力に逆らって空を飛んでいく。けれども、それは少しの間だけで、すぐさま落下して、ぽふん、と顔に当たった。枕にまで馬鹿にされているようで思わず強めに払ってしまう。

 大の字だ。

 チクタク、チクタク。

 時計の針だけが動いている。


「なんだかなぁ……」


 電話をしようかとも悩んだが、止めた。別れたのだ。別れたものは別れたのだ。

 いいよ、もう。あんな馬鹿。どうなっても知らない。ボクシングばっかりで、ちっともこっちを見ようともしない。ちょこちょこ髪型変えたり、わかりやすいようにいろんなことをしてるのに、全然気が付かないし。あいつ本当は男が好きなのかな、なんて思っちゃうよ、ホント。可愛い女の子と歩いてたからそれはない、か……。

 誕生日にプレゼントされたピアスが飾られている棚に目を向けた。

 捨ててやろうか。

 そのままの体勢で手を伸ばすも、届かない。ぱたぱたと、腕を上げたり下げたりするだけだ。あまりにも間抜けすぎてやめてしまった。踏ん切りがつかない自分がイヤになる。


「あー!」


 バタバタと足を動かした。


「決めた! とりあえずネットに入るぞッ!」


 いい。もう、いい。いいんだ。男はどこにでもいる。弘樹だけじゃないんだ! 

 よし、と気合を入れて、身体を起こす。枕元に並べてある棚に置かれた、ピンク色のノートパソコンに手を伸ばし、起動させた。真っ暗な画面に映る自分の顔がひどくて、情けなくなってしまった。「しっかりしろ、晴香!」と声に出してみると、タイミングよく、デスクトップが咲いた。設定画像は、以前、弘樹とデートしたときに撮った写真だ。「これも変えるぞッ」と言葉に出したのは誰に伝えるためなのか。しかし、晴香は素早くインターネットエクスプローラーをクリックした。ホーム設定してある有名なポータルサイトが開く。本日のニュースが流れており、いくつかの記事が載っていた。


『四回戦ボクサー、試合後に死亡』


 時間が止まった。

 血の気が引くと聞いたことがあるけれども、まさに、このとき晴香は体験した。サッと、身体の体温が頭から冷えて行くのを感じたのだ。呼吸するのも忘れ、ただ、呆然と画面を見つめた。青い色の文字。いつもは何の気なしに入っていける扉が、大きく、冷たく、そして重かった。

 何度も、同じ見出しに目を通した。

 文字は変わらない。

 それどころか。

 だんだんと大きくなっていく。

 そして、ニュースが脳に広がっていった。

 うそ……。

 もしかして。

 そんな……!

 考えたくないことが頭を駆け巡る。

 浮かぶのは、あの、呆然とした表情だ。

 あれが最後? 

 本当に?

 あれが最後なの!?

 うそよね?

 ね?

 ねぇ!?

 あんな最後なんてッ!

 感情だけが、瞳を圧迫した。

 ビンタして。

 キツイことを言ってしまって。

 傷つけてしまって。

 あんな顔をさせてしまって。

 私のせい?

 私のせいなの?

 私のせいで死んじゃうの?

 うそ。

 うそだよ。

 そんなはずない。

 弘樹は強くて。

 いろんな人が認めるくらい強くて。

 でも。

 強いとか弱いとか。

 私にはそんなことどうでもよくて。

 もう関係ないし。

 でも。 

 本当は。

 まだ気になる。

 一緒にいたい。

 あの笑顔がみたい。

 それなのに。

 自分から離れてしまって。

 隣を歩きたいのに。

 腕を組みたいのに。

 見上げて寄りかかりたいのに。

 さみしい。

 一人は、さみしい。

 だから。デートして。笑いあって。相槌して。相槌されて。少しだけ甘えて。ときには不機嫌な顔をして困らせて。なのにやさしく対応してくれて。絡める腕をぎゅっと握って。放さないぞって。勇気を出して言ってみて。写真とって。携帯にお土産で買った、おそろいのストラップをつけて。二人で、笑って……。


『四回戦ボクサー、試合後に死亡』


 クリックが、できない。

 ううん。

 違うかもしれない。

 そう、違うかもしれない。

 違うかもしれないのだ。

 でも。

 怖くて。

 恐ろしくて。

 その先に進めない。

 いいや。

 そうだ。

 私は別れたんだ。

 もう。

 関係ないんだ。

 関係、ないんだ。

 でも。

 大学に行ったらまた会えるなんて思ってる私がいて。私が、いて。大学にいつも弘樹がいるって、どこかで安心してる私もいて。けど、こんなことがいつか起こるんじゃないかって思ってて。いつも。不安で。試合も怖くて。一緒にいてくれるだけでいいのに。遠いところに行ってしまいそうな、そんな気分で。特別なことをしなくったって、特別な人だったのに。ボクシングなんかしなくたって。隣で笑ってくれれば。それだけでよかったのに……。

 あれ。涙が。出てくる。とまらない。とまらない。とまらないッ!

 情報は無慈悲だ。

 パソコンの冷却装置のファンが回る音が永遠と続く。

 震える指が、矢印を青い文字まで移動させた。

 しかし。

 押せない。

 入れない。

 が。

 唐突に。

 世界が破られた。

 携帯の着信音が鳴ったのだ。

 それはしばらく続いた。続いて、続いて、続いて……。

 晴香はビクビクしながらも手に取った。

 兄からだった。


「おっ。出た出た。今、あのボクシングの松田弘樹が外でシャドーしててよぉ。パフォーマンスしてガンバってチケット売ってるみたいなんだわ。お前、どうする? もうボクシングは見ないって言ってたから俺はパンチャイから1枚しか買ってないんだが、あれだったら松田からも買っておくぞ?」

「行く!」


 大きな声が出て、自分でびっくりしてしまった。

 生きてる!

 生きてるんだ!

 良かった……。


「ハハ、元気いいな。よし、定価の5000円だぞ。パンチャイと同じ条件だ。これで俺も心置きなく応援できる」

「パンチャイさんって、仕事先の?」

「そうだ。あの二人がやるんだ。面白くなるぜ」


 試合。

 元気な証拠だ。

 けれど。

 晴香の心には不安が生息している。

 ボクシングじゃなければ。

 死と隣り合わせのスポーツじゃなければ。

 私は。

 素直に応援できたのに。

 一回だけ。一回だけだから。見に行くのは、これで最後だから。

 晴香の座る場所は、どこなのか。宙ぶらりんになってしまった彼女には、どうするべきかどうしたいのか、判断できなかった。



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