第13話
深夜。
とあるビルの待合室。
他の警備員と警備の仕事を交代するために、プロボクサーでもあるタイ人の十九歳の青年パンチャイは、制服に着替えて、ボロボロのパイプイスに座って待っていた。隣には仕事仲間の福浦という男がいる。彼もまた警備員で、元プロボクサーという経歴を持つ。ボクサー同士、話も合うだろうと上司が気を遣ってコンビを組まされた相手だ。確かに、話は合う。ボクシングの技術的な質問をしても、的確な答えが返ってくるのだ。また、生活面の質問にも気軽に応対してくれることから、パンチャイは福浦のことを気に入っていた。彼は過去、世界タイトルにも挑戦したことがあるというが、本当のところは定かではない。ただ、彼の知識は経験に裏打ちされたものだということは身に染みてわかっている。たった一人で日本に出稼ぎにきたので身寄りもなく、だからこそ、福浦に心を開いていた。
パンチャイは、今日、所属するジムの会長に言われたことを、上機嫌で福浦に伝えた。
「オレ、今日、会長に『今回は勝て』って言われたんですよ」
「おお。『分からないように負けろ』と言われなくて良かったな」
パンチャイの事情を知っている福浦は、喜んでくれた。
そのことに気を良くして、パンチャイは、さらにボクシング業界的にグレーゾーンな言葉を続けた。
「むしろ、そろそろ勝たないとイケナイみたいなんです」
「そういえば、3戦3敗だよな?」
「そうなんです。このペースで勝たせて、会長はオレをB級に上げるつもりみたいです」
「パンチャイなら、上手くやれるさ。しばらくしたらA級にだってする予定なんじゃないか?」
「そんなに勝っていいんですかね?」
「実力があるんだから当然だろう。この前のスパーリング、こっそり観に行ったぞ。でも、アレはやりすぎだ」
「相手がA級って聞いたんで、本気でやりたかったんです」
「それにしたってKOしたらいかんでしょ。ジムにまで来てもらったのに、試合前に自信を失わせたらダメだ。お金もらってるんだからさ。自信を付けて帰ってもらわないと」
「もう、オレより弱いヤツに負ける演技をするの、そろそろ精神的に限界になってきたんです。あれはA級だったからマトモでしたけど、オレの相手、基本B級かC級ばっかりですよ。コッチは生まれたときからグローブ握ってるんです。それなのにアイツらときたら」
「それをわかってるから、会長は『勝て』って言ってくれたんだろ?」
「ですけどね。あー、面白くない」
「だよな。面白くないよな。でも国に帰ったら?」
「金なし家なし食事なし」
ハッハッハと、二人は、大きな声で笑った。
会話の内容は冗談ごとでは済まされないものばかりだが、彼らにとっては日常的であり、現在の状況に不満を抱いているもの同士、痛快な話は最高の娯楽だった。お互いの自身の境遇も手伝って、会話は、まるで桜吹雪のように咲き乱れる。
「俺もなぁ。世界チャンピオンまで後一歩だったけど、そのときも金は無かったし。今も無いし。ボクサーで食ってくってのは、難しいよなぁ」
「それでも仕送りはできてますけどね」
「タイだから物価が違うじゃねーか。それはそれでおめでタイ。なんつって」
ぎゃはは、とオヤジギャグ炸裂。
笑いながらも、しかし、パンチャイは反撃した。
「くだらねーですよ、福浦さん」
「なんだよパンチャイ。それならおめーはよ」
「パンチャイ、ごめんなチャイ」
「お前、それ持ちネタじゃねーかっ」
がはは、と二人で一笑する。
低レベルな駄洒落の嵐だ。
しかしそれでも盛り上がれる。
彼らにとってはいつものコミュニケーションなのだ。
「んで、そのかわいそうな対戦相手は誰よ?」
目に涙を浮かべながら福浦が尋ねると、
「松田弘樹っていうらしいんですけどね。なんか、会長が全力で潰せって言うんですよ。なんなんですかね?」
パンチャイは不思議そうに首をかしげた。
今、思い出してもよくわからない。引退させろ、なんて言われたのは初めてだ。全力でやれるのは構わないが、それにしたって、過激すぎる。何者なんだろうか。
その疑問は、福浦の表情を見てさらに深まった。渋い顔をしていて、何かを言い辛そうだ。パンチャイは答えを早く知りたかったが、しかし、我慢して、福浦の言葉を待った。
ゆっくりと、松田弘樹という人物を思い出すかのように、口が動いた。
「アイツか……。アイツは、ヤバイぞ」
ヤバイ?
どういうことだろうか。
人格でも破綻しているということだろうか?
いや。
それよりも。
どうして、四回戦ボーイのことなんか、知ってるんだろうか。
それぐらいの精神異常者なのだろうか?
それとも……。
「有名な犯罪者なんですか?」
「お前、どっからそういう推理になるんだ?」
「なーんで知ってるのかなって」
「あー。たまたま試合で観て、な」
「へー。どんなカンジなんです?」
「はやい、うまい、やすい」
「それ定食屋じゃないですか」
「がはは。ま、冗談は置いといてだな。一言にすると、バケモノだな。傾向としては、中距離を好んでるみたいだ。自分の距離感を大切にな。あ、手も足も速いから、気をつけろよ。パンチの種類はそれほど多くないんだが、全ての精度が高い。右も左も的確に当ててくるから、ディフェンスをしっかりな。左の刺し合いには注意しろ。下手すれば、そこから一気に持っていかれるぞ」
「でも2勝3敗って聞いたんですけど」
「あー。まぁ、確かに、変なところで躓つまずく癖があるんだよ。中途半端というか、やる気がないのかわかんねーけど、気を抜くときがあるんだわ。それで全部、落としてる。いまひとつ、皮を剥けれないんだよなぁ」
「包茎ですか」
「それは知らん」
「ですよね。オレと同じアンダードッグですか?」
「どうだろうな。あれだけの実力ある日本人なんだから、普通に育てれば楽にベルトを巻けるはずなんだが。ジムが小さいのかもしれんな」
「世の中、金ですか」
「まー、とにかくだな。実力のあるランカーとか、チャンピオンとかとやるぐらいの気持ちで行け。でないと、負けるぞ」
「持ち上げますね。そんなになんですか?」
「そんなに、なんだよ」
「ベルトがかかってたら、やる気もまた別なんですけどね」
「それはそうだが。ただ、勝てって言われてるんだから、全力でいけよ」
「うっす」
交代の時間だ。
パイプイスから立ち上がった。
福浦も同じだった。
パンチャイは気を良くした。
「福浦さんがセコンドについてくれたら、最高なんですけどね」
「考えておこう」
「そればっかりじゃないですか」
「迷ってるんだよ。今はジムにも行ってないんだ。簡単には決められねーよ」
「あーあ。面白くない。面白いことねーかな」
「次の試合を楽しみにしてろ」
「うっす。一応、期待しておきますよ」
「そうしろ」
松田弘樹か……。
福浦さんが覚えてるってことは、相当だな。
パンチャイは。
高鳴る胸に。
そっと。
拳を置いた。
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