第12話
今江護は幼い頃からボクシングに関わってきたが、弘樹の行っているフォームチェックは特殊であった。鏡に向かってパンチを打つのだが、いつもとは違うパンチの仕方をするのだ。スパーリングでは、知らない間にパンチを貰ってしまうような、いつ飛んでくるのかわからない恐ろしい打撃なのだけれども、このときばかりは違う。わざと微妙にパンチの角度を変えながら、鏡に映った自分の首や肩や肘の筋肉のごくわずかな動きを確認しているのだ。普通はそんなことをしない。自身の理想像を求めて、フォームを固める。間違った打ち方なんて練習しない。
弘樹は、「試合では緊張するからどうしてもリキんでモーションが出てくる。普段から正しいフォームと間違っているフォームを研究していれば、使う筋肉や力の流れが分かってどんなときでも修正できる」と言う。そして、様々なチェックをするのだ。ステップ・インからのリードジャブやストレート、足を止めてのブローなど。同じジャブでも打ち方には種類があるので、その研究の時間は他の人よりも長い。護は、言われてみればそうかもなぁ、と漠然とは理解できるが、クセが付いたら怖いので、そんなことは到底できない。憧れの弘樹だとしても、やはり自分のスタイルというものがあり、右にならえで同じことをしようと思わないものだ。
ブザーが鳴った。
がやがやと、女性陣の話し声がジムの中を拡がっていく。ボクササイズが終わったようで、何人かの女性がタオルで汗を拭いていた。達成感に満ちた顔をしていて、護は、父親のジムを楽しんでくれているようで嬉しくなった。ストレッチに熱が入る。
しばらくすると、女性たちが居なくなった。浅田と父親が彼女たちの対応をしているのか、トレーニングルームでは三人になった。これから一時間後のジムには、仕事の終わった男性たちが流れてくる。その間は、大抵、プロボクサー志望の護にプロボクサーの弘樹、トレーナーの浅田に父親で会長の今江の四人になる。時には弘樹のスパーリングパートナーがやってきたり、弘樹がスパーリングパートナーとして別のジムに行くこともあるが、基本的には四人の空間だ。室内の顔が変わる瞬間で、護の最も好きな時間の一つだ。けれども今日は一味違った。クラスで話題の竹上彩がいるのだ。
顔立ちが良くて明るく社交的。誰とでも分け隔てなく会話をするために、女子からは嫉妬と好感を、男子からは困惑と面倒と好奇心(護は好奇心派)を、それぞれ集めている女の子だ。しかし、男子女子ともに共通する話題がある。それは、いつも校門で待っている弘樹との関係だった。
最も有力なのは彼氏説。次点でお兄さん説。ロマン枠で片思いの王子様があり、ダークホースが彩お嬢様説で、弘樹が護衛という内容だ。今にして思えば、本当、入学式を休んだのがイタイ。スパーリングで顔を腫らして熱を出してしまい、学校に行けなかったのだが、もし、行っていたならば、弘樹の援護射撃くらいはできたはずだ。その必要があったと思うのには訳がある。なぜなら、大穴として、弘樹のストーカー説が流れているからだ。これは流石に弘樹には言えない。いや、それ以前にこういったいくつかの説が流れていること自体、会話で触れていないのだが。
シャドーボクシングなんて校門でしてるから……。竹上が襲われているときに助けたなんて噂が流れたり、護衛のSPなんて噂も流れたりするんだよなぁ。強いってのは確かにそうなんだけど、あー、でも沙耶さんの妹かぁ。なんかまた、面倒くさいことにもなってるんだろうなぁ。俺は弘樹さんのこと知らないフリしてるから被害はないけど。だって、シャドーとか。あれはねぇだろ。
残念なイケメンに同情しながら、護は縄跳びを手に取った。
「弘樹さーん。質問があるんですけど、いいですか?」
「なんだ?」
三分間ブザーの前の、三十秒のインターバル。
息を整えている弘樹が次にする練習は、実戦を想定したシャドーだ。
その前に、素早く疑問を伝えた。
「なんで学校の校門で竹上を待ってるんです?」
「仕事だから」
「なんで校門でシャドーをしてるんです?」
「時間があるから」
うん?
意味がわからない。
護の頭に疑問符が飛び交っている内に、休憩が終了した。
弘樹が練習を再開したので、護も縄跳びをすることにした。
質問の仕方が悪かったか? いや、まぁ、練習中の弘樹さんは集中してっから、返事はいつもこんなカンジだけれど。わかりにくい。あれ、仕事って言ったよな? あー、沙耶さん関連ね。またこの人は、なんかトラブルに対して上手いこと立ち回れなかったんだろうなぁ。ボクシングのことしか考えてないし。もう少し、他のことも考えたらいいのに。だから沙耶さんも……。あれ、でも護衛説ってマジなの? 妹って知らなかったから片想いの白馬の王子様にメロンパンを賭けたけど。弘樹さんのことを知ってるだけに余計わけわからん。彼女はいるから、彼氏説はないだろ。兄説もなし。ってことは、残るはロマン枠かダークホース。……大穴もあるけど。いやー。それはないだろー。変態という名前の紳士はなぁ。うーん。ありえない、ことはないのか、大穴。それはないよな、……たぶん。
でも。
と、護は熟考しはじめた。
実は、それとは別の噂も流れているんだよなぁ。同棲してるって。いいや、それがあっての兄説なんだけど。同じアパートに入っていく目撃例もあるみたいで、なんかなぁ。彼女いるからそれはないでしょ。わっけわかんね。沙耶さんと竹上が一緒に暮らしているはずなんだよなぁ。そこに弘樹さん? なんだこれ。弘樹さん、それはやばいんじゃないっすかねぇ。3人でって、意味深で草不可避すぐる。あれ? でも、沙耶さん転勤したよな。ってことは竹上と二人っきり?
は?
二人?
え?
二人?
……ふ、二人?
思わず弘樹を凝視してしまった。
弘樹は流れるようにシャドーをしていた。足や下半身、肩、手、上半身など、小さなフェイントを混ぜながらステップを交わし、拳を振っている。華麗で流麗。蛍光灯が照らす中、汗がキラキラと舞う。普段とは打って変わってプロボクサーの顔つきとなっており、射抜く視線は幻の敵をも圧倒してしまいそうだ。
ぶっちゃけ、このときの弘樹さんは男の俺からみてもカッコイイと思う。思うよ? 思うけどさぁ……。
チラリ、と彩の顔を盗み見る。
目を丸くしており、ポーッと魅入っているのか、こちらに気付いていない。
おおーう。そりゃないぜ。あれか? 普段のダメ人間っぷりからのギャップ萌えってヤツなわけ? あの人の頭の中、ボクシングで一杯だぜ? いいのか、道を踏み外して。この人はやばいぞ。初デートに後楽園ホールを選ぶくらいヤバイ人だぞ。彼女の誕生日プレゼントにボクシングのグローブを選んだ人だぞ? 流石に俺が止めて、ピアスにさせたけどさぁ。「シューズの方が良かったかな?」って、いや俺本当、相談に乗ってよかったわ。彼女が可哀想で見てられん。マジでそんな人だぜ?
ブザーが鳴った。
これから三十秒の休憩だ。
すかさず、言葉を紡いだ。
「竹上とどんな関係なんです?」
「竹上?」
「アイツですよ」
「ああ。バイト先」
あ。
いつもあの時間にいるってことは。
夜の仕事の同伴の可能性もあるぜ、これ。
「逆デリヘルですか? それともホスト?」
「ん? 何言ってんだ?」
「いや、新しい仕事のことですよ。いいんですか、弘樹さん。彼女いますよね?」
「別れた」
「えッ!? なら竹上とは?」
「一緒に住んでる」
「はぁッ!? 何言ってるんですか!?」
「護、勘違いしてないか?」
「何をですか? そりゃあ、勘違いの方がうれしいですけど」
「それが仕事だ」
「エエェッ!? ちょ、えぇぇッ!?」
逆デリヘルどころじゃねぇ!?
「え、それってどういう――」
「おぉ! 休憩中か。ちょうど良かった。弘樹、お前試合が決まったぞ!」
親父ぃぃぃ!
なんでこんなときに出てくるんだよぉぉ!
「本当っすか!? よっしゃ!」
「親父、今重要なところで――」
「タイ人で、3戦3敗だ。俺だってやるときゃやるんだよ」
こんな弱小ジムでそんな相手!?
どうやって申し込んだのさ!?
「ねぇねぇ。さっき、私のこと話してた?」
竹上ぃぃぃ!
今はそれどころじゃないんだよぉぉぉ!
「晴香、見ててくれよ」
弘樹さんッ!?
あんた、別れたんじゃなかったの!?
ちくしょう!
全くわけがわからん!
カオスだ。
なんてカオスな状況なんだ!
誰か、誰か……。
「誰か説明してくれよぉぉぉ!」
護の悲鳴がこだました!
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