第11話
「会長。俺、世界チャンピオンになります。そして、それからアメリカンドリームを掴みに、アメリカで闘います。これからもどうか、ご指導、よろしくお願いします」
ジムに入ってきてからのいきなりの一声だ。
今江は、弘樹から溢れる闘気を感じた。
弘樹は大学生。そろそろ就職するために引退をするかもしれない、ということを常に考えていた。前の敗戦から、日々、その想いがより強くなっていった。けれども、弘樹は驚くべき決意表明をしてくれたのだ。昨日までお気楽ボクサーだった弘樹がこれだ。一体誰が想像できるだろうか。いいや、誰にもできない。
今江は、隣で弘樹の練習風景を真剣に眺めている、弘樹と一緒にジムに入ってきた初めて見る女の子をチラリと覗いた。弘樹が変わったのは、この子のおかげかもしれないと考えたのだ。「見学してもいいですか?」と強面の今江に物怖じせずに堂々と質問してきた彼女は、なかなか根性がある。立派な自己紹介といい、今江は彩の肝の座っているところが気に入った。
「あー、竹上さん。一応、あっちにイスがありますよ。パイプですけど」
「すみません。けど、今日はあのアホ面を見に来ただけですので、いいです。こっちの方が近いですし」
ハッハッハ、と大きく口を開けて今江は笑ってしまった。
「アホ面ねぇ。確かに、いい具合にバカになったな。と、すみませんね。口調が元々荒いもので。弘樹の関係者となると特に」
「いや、いいですよ。敬語じゃなくて。姉ちゃんから聞いてますし」
「すまんね。でも姉ちゃん?」
「竹上沙耶です」
「あぁ! 沙耶ちゃんね。なんだ、沙耶ちゃんの妹なの?」
「そうですよ」
「いやー。分からなかったなぁ。言われてみれば、確かに似てるわ。おっ。それなら会員にも」
「ならないです。今のところは」
「それは残念。今なら入会金は無料で、高校生の月謝は5000円でいつでも使い放題だよ。シャワーも付いてるし、タオルの貸し出しもあるよ。うちはリーズナブルで良心的なんだ」
「考えときます。でも、高くないですか?」
「いやー。そうでもなくてね。これでも安い方なんだよ?」
「そうなんですか?」
「そうそう。沙耶ちゃんに聞いたらわかるよ」
「相談してみます」
「あぁ。そうしてみて」
ジムでは、洋楽のパンクなロックがBGMとして流れている。
リングで、アルバイトの女性インストラクターが、十人の女性と音楽にノッてボクササイズをしているからだ。動きはバラバラで、アルバイトの子になんとか必死についていっている様子が見て取れるが、本人たちはダイエットに真剣で、鋭い眼差しでダンスをしている。あれだけの気迫があれば、男でも簡単に倒せるだろうにと思ったけれど、口には出さなかった。独立前のトレーナー時代に一度言ってしまい、大目玉を食らったことがあるからだ。
また、片方では、女性たちの怒声が聞こえる。かなしいことに見慣れてしまった光景だが、恐ろしい形相で、女性たちがサンドバックを叩いているのだ。なんとまぁ、女性はたくましい。とある子なんか、まるでフラレたイケメンの顔を殴るように、ドスン、ドスンと、重い体重が乗せられた見た目通りの威力あるフックをかましていた。彼女が理想の体系になれるのはいつになるだろうか。全く検討も付かないが、運動量は半端ではないことは事実だ。滝のような汗が物語っていた。2、30kgぐらい痩せたら美人に入る部類だとは思う。いいぞ、見返してやれ、と心の中だけでエールを送った。
三分が終わり、ブザーが鳴った。これからインターバルのあと、また、三分間の激しいトレーニングが始まる。これを後何回か繰り返すと、彼女たちのトレーニングが終了する。きゃっきゃと笑いあい、今日はあれを食べようとかこれを食べようとか、ひどいときにはバイキングなど、おいおい何のためにダイエットしているんだよ、とツッコミたくなる会話がまた繰り返されるのだ。ほどほどが一番だ、ほどほどが。
「会長さん。質問があるんですけど」
「ん? ボクササイズ?」
「いいえ。なんで、『黒木』ボクシングジムなのかなって」
「あー。そこね。それはなぁ……」
重たくなる話なので、少しためらったが、この子なら大丈夫だろうと、誤魔化さずに話すことにした。
「昔の話なんだけどね。俺がずいぶんお世話になった先輩の名前でね。プロボクサーだったんだけど、事故で亡くなってね。その人からいただいたんだよ。弘樹によく似たタイプで、天才と騒がれていて、俺の憧れの人だよ」
「交通事故ですか?」
「いいや。ボクシングだよ。試合でね。リング禍といってね。頭にパンチくらって、脳出血で死亡することがあるんだよ。その事故で、亡くなったんだ」
「それは……。えっ、でもそれって、あいつも!?」
「そうだね。事故する可能性があることは否定できないよ。だからボクサーは、覚悟を持って、リングに上がらなきゃいけないんだ」
「なんでそんなにまでしてボクシングするんですか? 私にはわかりません」
「だよね。弘樹はなんて言ってた?」
「晴香さんに格好いいところ見せるためって」
少し拗ねた物言いに、またも大笑いしてしまった。
全くこの子は、いいや、だからこそ、弘樹と相性がいいのかもしれないが。肝心の弘樹が別の女に夢中とはな。
だが、今江は確信した。
彩のおかげで、弘樹がボクサーとして、ようやくスタートラインにようやく立てたことを。
「ありがとう」
「なにがですか?」
「弘樹が、おかげでボクサーになれた」
「ボクサーじゃないですか。それもオタクレベルの」
「ははッ。そうなんだけどね。そういうことじゃないんだ」
「どういうことですか?」
「うん。頭でっかちのインテリボクサーだったんだけどね。おかげで、少しバカになったみたいだ」
「なんか、私がバカにされた気分です」
「ああ、ごめん。そうじゃなくてさ。ほら、あいつ。いろんなことに頭が回るだろ? だからさ、自分の将来の可能性もリング禍のこととか相手の事情とかも、たくさん見えてるわけよ。んで、いまいち踏ん切りがつかない。どこに就職しようかと焦って練習中も上の空だったり、戦っていても、イケルときに慎重になりすぎたり、パンチが甘くなったり、ボクサーとして欠けてたんだ。才能はとびっきりなんだけどね。だから俺、思ってたよ。もしかしたら、もうすぐ引退するかもしれないって。毎日、風呂の中で考えてたよ。インストラクターならアルバイトで雇えなくはないかとかも、いろいろね。でもなんか、吹っ切れたみたいだ。アメリカンドリーム? ぶふッ」
「笑わないでくださいよ、恥ずかしい」
「あぁ、ごめん。やっぱり竹上さんだったの? でもさ、なんかずっと秘めてた分だけ強い思いが爆発したのか知らないけど、斜め上に行きすぎてて、まぁ、俺はこっちの素直な弘樹の方が好きだわ。日本とか東洋で止まらなくて、しかも世界チャンピオンを経由してアメリカなんて。言いたいことはわかるよ? わかるけどね。いや、もう、最高だわ」
「いいんですか? 移籍するかもってことですよ?」
「いいよ。あいつの人生だ。好きにしたらいい。それに、ここで世界チャンピオンになってくれるんだろ?」
「それを目指せと言いました」
「ハハッ。いいよ、いい。最高だよ。ちょうどあいつの試合も決まったことだし。ちょうどいい」
「え? 試合するんですか?」
「おう。するぜ。弘樹はまだ知らないけどな」
「私が先に知ってもいいんですか?」
「竹上さんならいいだろ。弘樹も納得するさ」
「彩でいいです。姉ちゃんも沙耶ちゃんですから」
「おう。ありがとな、彩ちゃん」
「あっ! 竹上じゃん。なんでここにいんの?」
どうやら、
しかし、護は彩のことを知っているらしい。疑問に思ってたずねてみると、二人とも、同じ学校で同じクラスなのだという。顔が高揚している護とは対照的に、若干、嫌がっている彩の顔を見て少しニヤけてしまった。「青春だねぇ」とポツリと漏らすと、怖い怖い彩の視線が貫いてきた。けれども、今江はちょっとだけ、可愛い息子を援護してみた。
「お前、アレだぞ。彩ちゃんは沙耶ちゃんの妹だぞ」
「えッ! マジで!?」
「何? なんかおかしい?」
「いやぁ。それがね、彩ちゃん。コイツの初恋の相手、誰だか知ってる?」
「知りませんよ」
「あー、あー、あー! 親父、それはない! やめてくれッ!」
「しかたない。可愛い息子のためだ。黙っておこう。しかし、あれからもう高校生か。沙耶ちゃんも、そりゃぁ転勤するわけだ」
「なんかわかっちゃった」
「あー! 親父、ミット打ちしようぜッ!」
「ばかやろう。まずはストレッチからだ。何年やってんだ、ここで」
「ちくしょー! 言うなよ!? これ以上、何も言うなよ!」
「わかった、わかった。退会すると知ったときのお前の顔なんて、誰にも言わないよ」
「しぃー! しぃー!」
「おっと。そうだったな。秘密だった、黙っておこう」
「よろしく頼むぜ、親父」
「おう。任せとけ」
「さすが親父だぜっ」
「なにこのコント」
護は「よろしく」とばかりに挨拶し、元気よく、弘樹の下まで走っていった。「弘樹さーん」と手を振って、なんともまぁ、仲のイイことで。小学生のころからだから、長い付き合いだ。たまにゲームの相手とかしてもらっているし、この関係が長いこと続いてくれたら親として、非常に嬉しい。目を細めて、二人の並ぶ姿を眺めた。
「楽しいジムだろ?」
「そうですね。明日から行こうかと思いました」
「いいよ。参加も月謝もいつでも。あれだったら、弘樹の給料から引いてもいい」
「それって、会長さんの大赤字ですよね」
「なんだ。よく知ってるね」
「あのアホ面から教えてもらいました」
「おおぅ。手取り足取り。親密ですなぁ」
「違いますッ!」
「ははは。あいつと沙耶ちゃんの関係、気になる? 教えようか?」
「気になりませんッ!」
今江は盛大に笑った。
面白い。
この子は面白い。
今江はジムの雰囲気がより華やかになったのを感じた。
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