第9話

  弘樹は晴香が走り去っていく後姿を、呆然と、眺めていた。

 別れる?

 なんで?

 何があった?

 気持ち?

 どういうことだ?

 女も?

 人生も?

 ボクシングも?

 遊んでる?

 舐めてる?

 いいや。

 そんなことは。

 いや。

 そもそも。

 どうして。

 ボクシングのことに詳しいんだ?

 事故。 

 チケット。

 ファイトマネー。

 晴香はあまり知らないはずで。

 あれ?

 知らないはず?

 本当に?

 どうしてそんなことを思った?

 聞いたこともないのに。

 あれ?

 聞いたことがない?

 晴香のこと、なにも知らない?

 そんなことは。

 いいや。

 でも。

 好きだから付き合うとかじゃなかった。

 強くなりたいから。

 会長のアドバイスで。

 ボクシングが上手くなりたいから。

 付き合ってみただけだった。

 本当に?

 好きでもなく?

 いいや。

 そんなことは。

 あれ?

 どういうことだ?

 そんなことは?

 何を否定した?

 何がそんなことはないんだ?

 ボクシングが上手くなりたいこと?

 いいや。

 そんなことはない。

 ボクシングは続けたい。

 引退はしたくない。

 そのためにも。

 お金は欲しい。

 ジムの月謝だって払わなければ。

 あれ?

 俺。

 お金のために戦ってるの?

 いいや。

 そんなはずは。

 ならどうして?

 晴香はなんて言ってた?

 負けるかもしれないから見せれない?

 誰に?

 晴香に?

 負ける姿を見られたくない?

 あれ?

 俺。

 今。

 晴香に見られたいから戦ってるのか?

 晴香に格好付けたいから?

 でも。

 チケットが。

 あれ?

 チケットなんて。

 渡すだけでいいのに。

 手元にあってもどうしようもないのに。

 なんだ?

 俺。

 晴香の前で負けたくなかった?

 晴香の前で勝ちたかった?

 いいや。

 そんなことは。

 そんなことは。

 俺は、ボクシングがしたくて。

 ボクシングがしたくて。

 ボクシングが。

 でも。

 したくても。

 ファイトマネーは3万円分のチケットで。

 たったこれっぽっちで。

 売らなきゃファイトマネーは0円で。

 月謝もあるからむしろマイナスで。

 お金を払いながらボクシングして。

 グローブもシューズもバンテージも。

 お金がかかるばっかりで。

 でも。

 続けたくて。

 いつも金欠で。

 バイトも探して。

 ルームメイトにもなって。

 家政婦代も貰って。

 プロボクシングをしたくて。

 お金を稼いで。

 でも就職活動も考えてて。

 大学卒業後のこともあるわけで。

 もう。

 みんなは就職活動を始めてて。

 だから俺も。

 どこかの正社員になって。

 趣味でジムに通うぐらいならって。

 それならボクシングが続けられて。

 あれ?

 俺。

 プロでボクシングしたいの?

 プロじゃなければ続けられる。

 ボクシング漬けではないけれど。

 続けられる。

 本当は。

 ずっとボクシングがしたい。

 突き詰めたい。

 この将棋のような。

 緊張感のある頭の使うボクシング。

 プロでないと経験できない。

 でもファイトマネーが。

 足りない。

 生活ができない。

 人生の時間は決まってて。

 ボクシングしてる分。

 就職することが難しくて。

 どちらかしか選べないわけで。

 せっかくの国立大学卒業見込みなわけで。

 就職するのが自然な流れで。

 引退するのが自然な流れで。

 大学卒業。

 同時にボクシング引退。

 引き際ってものがあって。

 卒業と同時がその時期だ。

 誰だってわかることだ。

 でも、プロでボクシングがしたい。

 し続けたい。

 プロボクサー。

 いいじゃないか。

 好きなことを職業に。

 最高じゃないか。

 プロボクサー。

 最高だ。

 かませ犬なのに。

 かませ犬なのに?

 そう、かませ犬なのに。

 対戦相手は日本や世界で活躍できそうな有力なチャンピオン候補ばかりで。

 有名どころのジム所属で。

 経済力や政治力があって。

 有利な試合を組むことができるのは当然で。

 俺はたった一人の無名ボクサーで。

 無名のジム所属で。

 経済力や政治力がないから。

 無茶苦茶な試合ばかりを組み込まれるのは当然で。

 格上から無理難題を押し付けられて。

 ミスマッチの繰り返しで。

 敵が勝つのが当たり前の試合ばかりで。

 けど。

 なんでこんなヤツが上のクラスにいるのかわからないレベルの人も多くて。

 かませ犬じゃなければ。

 もっと上に。

 もっとリングに。

 いいや。

 俺はかませ犬だ。

 あのジムが好きで。

 あの暖かい人たちが好きで。

 ボクシングを知った場所で。

 ボクシングが好きになった場所で。

 そこで、やっていきたくて。

 移籍の話も断って。

 だから厳しい戦いばかりで。

 未来のチャンピオンとばかりで。

 そいつらに勝てるなら、俺も有力なチャンピオン候補ってことになるわけで。

 勝てる見込みも少ないのに。

 でも。

 全部の試合、勝てる内容で。

 けれども3敗もして。

 負けたくなくて。

 勝つ姿を見せたくて。

 悔しくて。

 チケットを握り締めて。

 悩んで。

 迷って。

 決心して。

 でも。

 渡せなくて。

 あれ?

 俺、見てもらいたかったの?

 勝つ姿を?

 晴香に?

 強い俺の姿を?

 一人の。

 たった一人の。

 女に見てもらうために?

 シューズ履いて。

 バンテージ巻いて。

 グローブ握って。

 一人で戦っているのは。

 たった一人の、晴香という女性に注目してもらいたいため?

 好きな、女に格好つけたいため?

 あれ?

 俺。

 今。

 なんて結論付けした?

 好きな女のためって言った?

 好きな女?

 晴香のこと?

 俺、好きだったの?

 晴香のことが?

 でも。

 もう。

 終わりで。

 終わってしまって。

 ボクシングは。

 けど。

 ボクシングは続けられて。

 ボクシングは終わらなくて。

 ボクシングしかなくて。

 けれどもプロではやっていけなくて。

 俺には何も残らなくて。

 取り柄はボクシングぐらいで。

 それだけで。

 他のプロスポーツ選手のようにはできなくて。

 あれ?

 ボクシングで生活できるようになるのって。

 どれだけ勝てばいいの?

 ランカーになったらどれぐらいの金額になるんだ?

 チャンピオンになったら、どれぐらいの金額になるんだ?

 もし、世界チャンピオンになったら。

 どれだけのファイトマネーが。

 ボクシングを続けることが。

 俺を、見てもらうことが。

 見てもらう?

 一体、誰に?


「追いかけないの?」


 彩だった。

 下校中の、ルームメイトだ。


「いい。俺には、そんな」

「じゃあ。どうして泣いてるの?」

「泣いてる? 俺が?」


 頬に手を置いた。

 濡れていた。

 俺は。

 泣いている?


「追いかけたら?」

「けど」

「もうすぐ着くし。いいよ、一人で――」


 いつの間にか。

 俺は。

 走っていた。

 最後まで聞かずに。

 仕事を投げ出して。

 走ってた。

 晴香の姿を探して。

 どこにいるのかわからないけれど。

 走って。

 走って。

 走って。

 携帯電話を見て。

 電池が切れてて。

 無頓着な自分に腹が立って。

 また走り出して。

 そして俺は。

 晴香を。



 見つけれなかった。



 以降。

 電話も。

 メールも。

 繋がらなくなった。






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