第8話

 晴香はイライラしていた。

 なぜなら、彼氏である弘樹が、浮気しているという噂を聞いたからだ。

 別の女の子と、ずっと一緒にいるらしい。

 言われてみれば、確かに電話で話をする時間が少ないように思えてきたけれど、最初は「あんなボクシング馬鹿が、そんなことをしようだなんて思うわけがない」と笑っていた。けど、噂を聞き続けると、だんだんと不安になってきてしまい、とうとう、本当のことに思えてきてしまったのだ。弘樹を信頼していないというのではない。人は、根も葉もない噂だとしても、言われ続けると「そうなのかも」と考えてしまう生き物だということだ。そして、一度不安になってしまうと、もう、戻れない。些細なことでも気になるようになってしまう。電話の時間、メールのやりとり、態度。それらが変わってなかったとしても、だからこそ、そこに原因を疑ってしまう。装っていると感じてしまうのだ。晴香は蟻地獄にはまっていた。

 でも。

 晴香は想う。

 弘樹が女性に積極的になるはずがないのよね、と。

 なんといっても、初めてのデートの場所からしてありえなかった。後楽園だったのだ。友人に話をすると、「遊園地? あー、まぁ、いいじゃん。ドキドキした?」なんてキャーキャー騒いでいたけれど、そんなことはなかった。お化け屋敷で抱きついたり、ジェットコースターに乗って両手を上げたり、ソフトクリームの食べあいなんてあるはずがなかった。弘樹のセンスはそんな簡単なものではなかった。後楽園ホールでボクシングの試合観戦だった。あいつは馬鹿だ。心の底から馬鹿だ。根っからの馬鹿だ。

 弘樹が自慢げに、「すごいだろっ」なんてはしゃいでいたが、すごいのはお前の脳みそだ、と言いたいぐらいだった。誰が初デートで殴りあいなんて見たいと思うか、こんこんと問い詰めてやりたかった。きゃっきゃうふふをしたいんだよ。なんのために化粧こしらえてると思ってるのだろうか。なんのために下着まで新調したと思っているのだろうか。あいつは女心の一つもわかっちゃいない。

 そんな男が浮気だなんて、想像もつかない。

 けれど、一度不安になってしまったからには、どうしようもないのだ。

 何度も、何度も、あのボクシング馬鹿、通称『ボカ』の趣味嗜好から、浮気なんてありえない、と打ち消した。ボカには、到底、できっこない。女の子なら、普通、冷める。ボクシング、ボクシング、ボクシング……。こいつはダメだ、とすぐに判断する。かくいう晴香も、その一人だった。

 デート一回で、見切りをつけたのだ。

 それでも今、弘樹と付き合っている理由は、別に、弘樹が積極的にアピールしてきたわけでもなんでもない。事実、以降、何の連絡も取っていなかった。しかし、また、弘樹と出会うことになってしまった。

 昔、ボクシングをしていた兄が、たまたま、チケットが余ったからと言って渡してきて、偶然にも、何の予定もなく家でゴロゴロしていた晴香が『もったいないオバケ』を出してしまい、迷った挙句、なんとなく兄についていったら、奇跡的に、因縁の後楽園ホールでボカが試合をしていたのだ。

 弘樹は、まぁ、悔しいことに、リングの上ではすごかった。始まったと思ったら、1分も経たずに勝ったのだ。ベルトを巻いたことがある兄も驚いていた。「こんなところにいていい選手じゃない」とか言っていた。あんなものさえ見ていなければ、兄は『松田弘樹』のファンになっていなかったし、晴香だって付き合うことにはならなかった。最悪だ。

 ボクシングなんて、お金にならない。強かった兄も、今ではしがないリアル警備員だ。自宅警備員でないのがせめてもの救いだけれど、ボクシングで頂点を争っているときでさえ、バイト三昧だった。絶対ない。付き合う対象じゃない。普通の人と一緒になった方が身のためだ。

 でも、見てしまった。

 同じ大学にいて、ボクシングばかりの、弘樹の恥ずかしい姿を。講義の最中、携帯で動画を見ていると思ったら、ボクシング。広場で誰かがパフォーマンスをしていて観客が集まっていると聞いて期待して行ってみれば、弘樹のシャドーボクシング。顔を腫らしたすごい人がいると聞いて、もしかしてと思って近づいてみれば、など。あれだけのボカが、キラキラして見えてしまった。ギャップに負けた。ずるい。一生の不覚だ。

 そんなボカが浮気?

 ありえない。

 けれど。

 頭にこびりついて離れない。

 ごしごしと擦るのだけれど。

 しつこい汚れが取れない。

 ゴシゴシ。

 ゴシゴシ。

 ゴシゴシ。

 どれだけ擦ったことかわからない。

 何度も綺麗になったはずなのに。

 いつの間にか汚れている。

 そして晴香はまた洗剤をぶちまけるのだ。

 こすって。

 こすって。

 こすって。

 晴香は疲れてしまった。

 だから、大学の講義が終わると、こっそりと、弘樹の後を付けてしまったのだ。

 尾行。

 後ろめたさ。

 でも。

 打ち消して欲しかった。

 ノックアウトして欲しかった。

 助けて、欲しかった。

 そして。

 目撃してしまった。

 可愛い女子高生と歩いている馬鹿の姿を。

 …………うそだ。

 私がいるのに?

 私がいるのに?

 私がいるのに?

 どうして。

 なんで?

 うそ。

 そんなはずはないのに。

 あいつはボクシング馬鹿で。

 いっつもボクシングのことばっかりで。

 私の前であんな笑顔をするのに。

 なんでよ。

 どうしてよ。

 何があったのよ。

 信じてたのに。

 私は、助けてくれると思ったのに!

 わかってるの?

 いつもどんな気持ちでいるかわかってるの!?

 顔を腫らしてる姿を見てる私の気持ちをッ!

 楽しそうに話す弘樹を見てる私の気持ちをッ!

 わかってるッ!?

 なによ!

 なによッ!

 なんなのよッ!

 なんであんたはそんなトコにいるんだよッ!

 気が付いたら。

 弘樹の目の前に出て。

 ビンタしてた。


「舐めすぎなのよッ! 女も人生もボクシングも。私がいつもどんな気持ちで待ってるのかわかる? 顔を腫らして帰ってきて。事故で死ぬことだってあるのに。へらへらへらへら。遊ぶのなら、引退すればいいじゃない! それに、負けるかもしれないって思ってるのか知らないけど、チケットだって私にも誰にも売らずに! ボクサーやってくつもりなら、ファイトマネー代わりのチケットなんだから、人に頭下げて値引いて少しでも売ることぐらいしなさいよ。好きなら、後悔しないようにとことんやりなさいよ。人生のこと、なんにも考えてないじゃない! しかも私がいつもホールに見に来ていることだって、全然気付いてないじゃないッ! 一生懸命な振りして、遊んでばかり。一人だけ真剣な私が、バカみたいじゃない!」

「……晴香」

「別れる。あんたなんか、もう。二度と見たくない!」


 走って。

 泣いて。

 歩いて。

 立ち止まって。

 振り返って。

 そこには誰もいないのに。

 それでも。

 追いかけてきてくれることを望んで。

 あの人を待ってる私がいた。

 本当。

 バカみたい……。


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