第6話

 朝5時。

 松田弘樹はトレーニングウェアに着替え、外に出た。

 毎日のトレーニングメニューの一つ、ロードワークをするためだ。

 春になったとはいえ、さすがにまだ朝の気温は低い。柔軟体操をし、体を温めた。そして、走り始めた。

 女子高生との共同生活ということで、どんなハプニングが起きることやらと心配していたが、案外、たいしたことはなかった。ご飯を作る量が増えたり、入ってはいけない部屋ができたり、トイレにゴミ箱が追加されたりと、それぐらいだ。食事が常に二人になったというのは未だになれないが、おおむね、良好だと思える。ジムとの距離も近くなったことは嬉しかった。

 ボクシングジム。そう、ボクシングだ。ボクシングの観戦は、昔からの趣味だ。インターネットを開くと、簡単に、いろんな人の試合が覗ける。動画サイトにあるのは有名選手のKOシーンが主だったりするが、そんなものよりも、試合全てが記録されている動画のほうが、弘樹にはよっぽど価値があった。一つの動画でも、見るたびに違う技術の発見があり、学べるところがたくさんある。足捌きや、リズム、フェイント、リングの使い方など、様々だ。できるかどうかは別として、頭の中にあれば、実戦における咄嗟の出来事への対応も変わってくるのだ。

 あのときの左フック。あれは、動画で勉強したことが生きたものだった。ただ、もう少しシャープに打っていたならば、違う結果になっていたはずだ。弘樹は分析していた。それに、3ラウンドで一度目のダウンを奪われたとき。ガードが甘くなっていたところを狙われたことも気に食わない。常に顎は守るように、グローブを下げず、肩の位置も意識しなければ、同じことを繰り返してしまう羽目になる。そうならないためにも、すぐに克服したかった。会長からは油断していることと、目が良すぎることを指摘された。油断や動体視力のことはわからないが、集中力は切れていたかもしれない。そこで考えられるのはスタミナ不足だ。疲れにより、集中力が切れ、腕の位置をキープし続ける緊張感をなくしたというものだ。

 また、相手の攻撃を吸収しきれなかった足腰の柔軟性も問題だ。確かにあの選手のパンチ力は桁違いだったが、鍛えてさえいれば、ガードも下がらなかったし、もう少し早い試合展開にもっていけたかもしれない。早期決着KO勝利。これからの試合も今までの試合も、本当のところ、ジャッジだって疑えばキリがない。KOで勝てれば、それが一番なのだ。

 ただ、会長は言った。

 負けを認めろ、と。

 それから這い上がれ、と。

 弘樹は「認めています。だから、理由を探してます」と応えたが、「だから認めてねぇんだよ」と、ミットで頭を叩かれた。わけがわからないが、スタミナ不足は間違いない。足のどの筋肉を今使っているのか、どのようにベクトルが流れているのか、確認しながらロードワークに励んだ。


「おはよう。今日も精が出るね」

「おはようございますっ」


 毎朝、ロードワークを続けていると、同じ時間に走っている人や、犬の散歩をしている人、仕事の準備をしている人などに毎日出くわすことになる。引越ししてから新しい場所になってもそれは同じで、どこにでも朝早くから活動している人はいるものだ。そして、いつも見る顔ぶりなので、自然と、親しくなってくる。さきほどは八百屋の店主だ。よくもまぁ、この時代。八百屋なんてやっていけるものなのかと疑問に思っているのだが、彼の健康そうな顔からは、大丈夫そうな雰囲気がある。明るく挨拶を返し、走り続けた。

 赤信号。立ち止まり、シャドーボクシングを行う。脳内での仮想敵は、あの年の新人王。微妙な判定で負けた、悔しい相手だ。同じ右利きのオーソドックスタイプ。素早い立ち回りに対応するように、こちらもスピードを乗せて、コンパクトに拳を振るう。左ジャブのダブルから左ボディ。距離を取り、敵の奥手から離れるように、時計回りで陣取りを意識する。けれども相手も同じように位置を調節しようとするために、リングに円を描くことになる。ゆえに、互いに上手い位置にいけない。両者とも、足の運びにすらもフェイントが交わってくる。右に、左に。惑わし合う。左ジャブが飛んできた。後ろに移動し、届かない位置に身体を置いた。仕切りなおしだ。

 と、信号が青になったという機械的な知らせが舞い込んできた。シュミレートを中断し、ロードワークに入った。


「あ、おはようございますー」

「おはようございますっ」


 犬の散歩中の女性だった。見たところ、20代前半だろうか。弘樹の付き合っている晴香という女性よりも少し上ぐらいだろう。犬の種類はわからないが、小型から中型の間くらいの大きさで、毛の色は茶色だ。しっぽを振って、ロードワークに励んでいた。犬にも同じような習慣があることに面白みを感じる。その調子で頑張れよ、と犬に向かって笑顔を向けると、より強くしっぽを振ってきた。可愛げのある犬だ。こんなに可愛ければ、確かに、飼う意味もあるのだろう。飼おうとは思わないが、癒される気持ちは理解ができた。

 弘樹は、晴香との仲が悪くなりはじめていることを感じている。何かにつけて、前よりもそっけないのだ。こんなことは今までなかった。理由はわからない。しかし、正直なところ、ボクシングをしやすい環境にはなってきた。動画を見る時間も増えた。考えることができる時間も増えた。ボクシングに打ち込める時間も増えた。それらは単純に嬉しかった。

 実力は、少しはついてきたと思う。だが、結果は負け越しだ。

 かませ犬か……。

 KOで完全決着を。

 弘樹の目標は、まだまだ遠い。

 


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