第5話

「会長、もう、あきらめたらどうです? プロボクサーっていったって、結局赤字じゃないですか。地道にフィットネスクラブでいきましょうよ。時代はダンスボクシングで、シェイプアップですよ。今だって苦しいんですから」


 黒木ボクシングジムは、松田弘樹が所属する、ボクシング界で無名の小さなジムである。ジムを経営しようと独立して5年経った今江会長は、そこで、トレーナー兼マネージャーである浅田から、経営方針についての意見を聞いていた。浅田とは、今江が現役プロボクサーであった頃からの仲で、独立時に声をかけると、一も二もなく引き受けてくれたので、大変、感謝している後輩であった。

 けれども、その案ばかりは引き受けられない。

 プロボクサーの養成を止めるなんて、夢も希望もないからだ。申請するにあたって、どれだけ苦労したことか。松田のための試合を入れるのに、どれだけ苦労していることか。浅田はそれらを知っているだけに、あえて意見を言ってくれている。しかし、だからこそ、今江という男はプロボクシングにこだわってしまうのだ。実を結んだとき、一体どうなるのだろう、と。


「ダンスボクシングなんて、んなハイカラなモン」

「会長、まだ四十じゃないですか。そんな親父くさいこと言ってないで、女性をターゲットにして、ダイエットで押しましょうよ。いいや、最近、男性だって増えてきてるんです。黒字ですよ。このまま順調に、慎重に経営していきましょうよ」


 浅田の言うとおり、設立して現在、ようやく軌道に乗った形になってきた。当初は、赤字続きでもうダメかもしれないと思っていたが、ボクササイズ、ボクシングダンスの流行から、徐々に、会員が増えてきたのだ。おかげで、なんとか黒字転換することができた。とはいうものの、未だに危うい経営状態なのは変わらない。先月だって、古株の会員が転勤によって退会してしまったのだ。一人減り、二人減り、一人増え、二人増え。胃の痛くなる日々が続いている。

 ゆえに、プロボクサーで一発、賭けたかった。

 日本ランカーにでも名前を連なれば、無名ジムだとしても、格ができるというものだ。わかりやすい結果というのは、本当に、わかりやすい結果が付いてくる。それに、可能性だってないわけではない。


「オレは、あいつに賭けてるんだよ」


 あいつというのは、黒木ボクシングジム唯一のプロボクサー、松田弘樹のことだ。赤字ばかりのストレスで追い込まれていたときに出会った少年。柔道をしていたという裏づけのとおり、強い足腰と、身体の軸のバランスの良さが目立っており、輝ける原石を見つけた今江は、瞳を潤ませて喜んだ。そうだ、こんな出会いがあるからたまらないんだと、浅田と飲み明かしたことも記憶に残っている。それほどに惚れこんでいる。

 5戦2勝(1KO)3敗。負けこんでいるが、それは対戦相手が期待のホープばかりだったからで、もっと綺麗に磨いていけば、すでに6回戦にいるはずだ。弘樹にはそれだけの実力がある。だが、ボクシングはスポーツといえど、興行である。試合をするためには会場を借りねばならず、そのためにはお金が必要で、けれども黒木ボクシングジムには経済力がない。どのようにマッチメイクをしているかというと、大手ジムが主催のするイベントに頼み込んで試合を組ませてもらっていたり、知り合いの会長と費用を折半しながら、どうにかカードを組んでいるといった次第だ。お金の支払いをある程度免除してもらっている分、相手の無理な注文を受けざるを得ない。結果、格上との試合だらけになってしまった。

 1敗目は、初戦。初めてのリングに緊張でガチガチになっているところを、アマチュアボクシング出身の実力者をぶつけられて敗戦。2敗目は、現在の新人王で日本ランカーになっている大物。3敗目は、全試合連続1ラウンドKO中のハードパンチャーだ。自分のジムが弱小であることが、これほど悔しく、無念に感じるとは思わなかった。弘樹はもっと勝っていいはずだ。大手のジムに行けば、それこそダイヤモンドになるかもしれない。

 あまりのことに弱気になってしまい、大手に行く気はないのか、と弘樹に尋ねたことがある。実のところ、大手から弘樹本人に移籍の話がきていることは、耳に挟んでいた。大手所属となれば、弘樹の実力があれば、これまでとは打って変わって楽に勝てるはずで、実力を伸ばすための練習環境だって断然違う。退会して、移籍するかもしれないと、毎日怯えていた。けれども、勝ちたいのなら、移籍は当然のことだった。プロボクサーだったのだ。その気持ちは痛いほどよく理解できる。それで、つい、質問してしまったのだ。すると、弘樹は笑顔で言った。「会長。ボクシングの面白さを教えてくれたのは、あなたです」と。勝たせてあげたい。強く願い、対戦した5戦目。これまでの三試合で圧倒的な強さを見せ付けてきた相手に、弘樹は、二度のダウンを奪った。しかし、結局は大逆転負け。確かに実力は拮抗していたが、そもそもあれは両者ともに4回戦レベルの試合内容ではなかった。


「浅田だって、知ってるだろ? アイツはこのまま終わる器じゃない」

「それはそうですけど」


 試合中は常に冷静で、試合の組み立ても上手い。正確な打撃が持ち味で、スピードがあり、カウンターも狙って打てる。その上、理論的なのだ。がむしゃらに突進して拳を振りかざしていた今江の現役時代とは違う、華のある戦いだ。かませ犬なんてもったいない。表舞台に立つべきポテンシャルを秘めている。


「日本ランカーどころか、チャンピオンにだってなれる。その上だって……。あいつの覚悟さえあれば、できるんだ」

「ですけど会長、その覚悟ってヤツですけど、前の試合内容だったらいまひとつですよ。この道でやってく覚悟があれば、あそこで気を抜いてダウンなんかしなくて、勝ってましたよ。そんな、勝てる試合を全て落としてばかりです。5戦5勝、全勝できたんですから、とっくにB級、あと1勝でA級ですよ。A級ならランカーとも戦える位置です。メンタルのダメな弘樹が弱いんです」

「酷評じゃないか」

「そりゃ、僕だって期待してますからね。こんな状況で、あれだけの内容をみせてくれるんです。期待しない方がおかしいですよ。弘樹は実力だけでいえば、A級です。ですけど……」

「いや、確かに、そのとおりだ。あいつは頭が良すぎるからなぁ」

「会長みたいな性格なら文句なしだったんですけどね」

「お前、俺みたいな性格なら、ブルファイターでブンブン丸だぞ」


 ブルファイターとは、ガチガチに防御を固めて、ひたすら前進あるのみ。近づけたら殴る。そんな亀スタイルで、打たれても打たれても、血だらけになりながら突進し続ける。弘樹とは正反対の攻撃方法だ。今江はこれで日本ランカーにまで上り詰めたが、弘樹はタイプが違った。綺麗に、華麗に。足を使ってリズムを作り、正確なパンチで相手を射抜く。決してパンチ力がないわけではなく、その方が、弘樹にとって戦いやすいスタイルなのだ。勇敢と冷静。無謀と臆病。どちらがいいとは決して言えない。どちらもいいし、どちらも悪い。


「うわぁ。どっちもどっちですね。足して2で割ればいいじゃないですか」

「お前、どうやってできるんだよ、そんなこと」

「脳みそ入れ替えましょうよ」

「やだね。それだとあいつがボスになっちまう」

「弘樹が経営者なら、ボクシングジムなんて名前じゃなくて、フィットネスクラブにしてたでしょうね」

「なんだよ。センスが悪いってのかよ」

「いいえ。もう少し早く、黒字になってたと思うだけです」

「あぁー、もう、わかったよ」


 黒字、黒字。確かに大事なことで、それがなければジムをたたむことになってしまう。赤字が続いたときのストレスは半端ではない。胃薬を飲み続けるのは、しばらく勘弁してほしかった。プロボクサーを養成し続けることは無理があるかもしれない。けれど、弘樹のこともそうだが、今年、高校生となった息子のことだってある。そう簡単にはあきらめられない。


「男子高校生は、希望者のみ、プロ育成コース。これでどうだ」

「そうですね。とりあえずはそんなところでしょう」

「そんなところでしょうって。お前だって前の試合じゃ、はしゃいでたくせに」

「しょうがないですよ。あれ、勝ってましたから」

「試合、組むの難しくなりそうだな」

「えぇ……。戦績だけで判断してくれたら、組めるでしょうけど」

「2勝か。勝たせてやりてぇな」

「そうですね」

「おはようございまーす!」


 会員の女性だ。もう、そんな時間になっていたらしい。


「あっ、おはようございます!」

「会長。声のトーンが別人ですよ」

「うるせぇ。お前も早くミットを用意しやがれ」

「へーい」


 浅田が、挨拶をしに女性の元へ駆け寄った。

 ボクシングジム。名ばかりで、男性よりも女性の方が多いという現実。やりきれない気持ちで、今江は、サンドバックを撫でた。

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