第4話
新しくできた友人である竹上彩は、武田直子に不安を感じさせていた。
高校生活は始まったばかりなので、二時間目の現在行われている数学の内容は、実に簡単すぎるものだった。ゆえに飽き飽きしていた直子は、素晴らしくどうでもいい内容なのに真面目に聞いてノートを取っている彩を、すごいなぁ、とぼうっと眺めていた。
直子にとって、彩は悪い人間ではない。むしろ、気持ちの良い性格の友人である。明るく、素直で、面白くて会話も弾む。遠くの中学校からきたというが、そこでも友だちはさぞ多かったと考えられる。それぐらい、彩は社交的なのだ。
少し前のことだ。ほとんどの学生が親と一緒に入学式に参加していたが、あいうえおで振り分けられた出席番号順で並んだために目の前にいた彩だけは、格好良い青年と共にいた。母親を連れた直子がなんでだろうと考えているうちに式は終わり、「1‐A」と分類された目新しい教室に通されると、当然のように前の席へと彩は座り、青年はその横に立った。これから一年間担任となる教師が自己紹介をした後、父兄に対しての小難しい話をしたが、それが終わるとクラスは一気に雑談と花が咲いた。
そのときだ。初めて会話をしたのは。きっかけは、彩が後ろを振り返り、はっきりとした明るい声で「おはよう。私は竹上彩。これから、よろしくね」と挨拶をしてきたことだった。モテるだろうな。第一印象だ。それは今でも変わらない。
一方、直子の母は青年と二、三挨拶してから、楽しみにしていた知り合いとのおしゃべりへと動き、それを見た青年は担任の先生に近づいていった。気になってちらりちらりと覗いていると、彩もそうなのか、親しげに担任と話す青年へと視線を何度も移していた。「お兄さん?」と聞くと、「まぁ、そんなもん」と、珍しく歯切れが悪かったので、あのときの苦笑は今でも覚えている。本当に、いつもは快活な女の子なのだ。
でも、彩には大きな問題がある。容姿が端麗だということだ。直子は別に気にならないが、そのことを嫉妬する人は多いように思える。その上、男の子とも抵抗なく話しをする。味方が多くなる性格である反面、強力な敵も作ってしまいそうなのだ。事実、まだ高校生活が始まったばかりにも関わらず、よく話題になる人物の一人となっている。
ため息を吐き、直子はシャープペンシルを上唇に乗せて、バランスを保ちつつ、彩のことを考えた。
さらに、話題の元として、あの格好良い青年の存在があった。なんと、青年が、毎日学校が終わる頃になると迎えに来ているらしいのだ。彩本人曰く、夜道は危ないからって心配性な兄が、と言うのだが、そうだとすると、相当なシスコンだ。少し危ない人なのかもしれない。
そういえば、と直子は思い出した。
お兄さんに関することで、こんな噂もあったっけ。国立大学にいるのだけれど、そこでは、たまに顔をボコボコに腫らしているのだという。噂だからあてにはならないけど、それほど、素行が悪いってことなのかも。危ないのは、少しだけじゃなかったりして。お迎えなんて実行力もあるんだし。
そこまで想像を膨らませて、直子は顔を青ざめた。
ということは。まさか……、いや、彩に限ってそんなことはないと思うけど、もしかしたら、そのシスコンの青年と彩が、その、愛し合っていたりなんかして。ううん、そんなことはない、と、思うんだけど。あっ。そうか。彩にはお姉さんがいる。んで、お姉さんも同じ大学だったはず。ってことは、お兄さんのシスコンぶりが功を奏して彩のお姉さんを追っかけることになって……、あれ? えっ、ちょっと、それはドロッドロじゃないかな。危険な三角関係。うはーっ!
チョークのアカペラ状態の静かな教室で、不意に、カシャンとノイズが響いた。一斉にクラスメートの顔が揃ってこちらを向いた。恥ずかしいことに、動揺した直子が、シャープペンシルを床に落としてしまったのだ。頬が赤くなるのを感じながら屈むもうとすると、その前に素早く彩が拾ってくれた。笑顔で渡されたのだが、先ほどまでの思考のこともあり、直子は、ぎこちなくお辞儀をしてしまった。
まぁ、そんなことはないんだろうけど。このままじゃ不完全燃焼なんだよね。
そう感じた直子は、真相を尋ねることにした。けれど、ちょっと聞きづらいなぁと決心が鈍っていたそのとき、なんとチャイムが鳴ってしまった。するとすぐに彩が後ろを笑顔で振り返った。
「終わったねっ。次は英語だっけ? 早く放課後にならないかなぁ。3DSでぷよぶよしたいぜッ」
ちょっ、心の準備がまだなんですけど!
「ん? どうしたの?」
不思議そうに彩が覗いてきた。
「あ、いや、その……」
「あぁ。シャーペン、あれは恥ずかしいよねぇ」
嫌な汗が背中をだらだらと流れた。
「そう、だね」
歯切れの悪さに心配したようで、彩は瞳を潤ませて言った。
「あれ、どうしたの直子? 調子、悪いの?」
「う、ううん。そうじゃないの。そうじゃないんだけどさ……」
「だけど?」
ダメだ。うん、このままじゃいけないんだ。
なんとか決心した直子は、おずおずと、彩に疑問点を尋ねた。
「えっと。あの、さ。えー、お兄さん、いるよね?」
すると彩は決まり心地が悪そうに、
「あぁうん」
と頷いた。
やっぱり……。あ、いや、そんなことはないよね。
「でさ、えーっと。シスコン?」
「……はあ?」
うわっ。怪訝って顔だ。これはマズイ。
「や、ホラ! 異常に一緒にいるじゃん!」
彩の顔がさらに歪んだ。
あちゃー。なんか悪化してる。
「あー、なんのことをおっしゃっているんでしょうか?」
「だっ、だってさ。お迎えとかさ。普通、しないよね」
そうそう。
お迎えとかさ、大げさだよね。
「あぁ、そうか。そういうことね」
うーん、としばらく唸った後、近親相姦してるかもしれない女の子は、うん、と思い切った表情で言った。
「実は、兄妹じゃないんだ」
「えっ? 血が繋がってないってやつ?」
「うん? そりゃ、繋がってないけど?」
……いやいやいや、ちょっとそれは予想外。あっ。これはあれだ。親御さんが再婚してできた新しいお兄さん的展開だ。少女マンガでよくあるヤツ。……エ゛? ガチで? それであんな関係? ややや、それは危ないよ。できるじゃん。セクロス。これはあかん。あかんですたい。子作り可能ですたい。結婚も可能ですたい。
直子の妄想は限界なく膨らむ。
「……あれ、お姉さんは?」
「姉ちゃんとは血が繋がってるよ」
ちょっと! 聞きました、奥さん!? 義理のお兄さんがお姉さんと同じ大学ってことは、少女マンガ的にも、大学まで追いかけてゴールインって展開ではなかろうか。その上、彩を溺愛ですって。……あっ、そうか。むしろ、お姉さんとお義兄さんが結婚して、だから彩のお義兄さんとなったってことか。なぁるほど。それは納得。
そして、その妄想は果てしなく斜め上を行き。
「へぇへぇ。ってことは、今、三人暮らし? 入学式のときにはお義兄さんが一緒だったよね。」
親元から離れてるって言っていたよね。ってことは、この近くの国立大に通っていたお姉さんとお義兄さんが一緒に住んでいて、そこに彩が居座るようになったってことかな。あーん、新婚さんのお邪魔虫じゃん。
頭の中ではお花畑が咲き乱れ。
「えーっと。いや、その、誰にも言って欲しくないんだけど……。実はさ、二人暮らしなんだ。姉ちゃんが転勤したから」
って、うぉい! 新婚さんのいやんな家庭に猫一匹乱入ですか!? でもでも血の繋がっていない兄妹は二人暮らし。妻は外で仕事をして、その間は猫が可愛がられている。こういうことだよね、だよね、だよね!? ってことはあれだ、昼ドラだ。昼ドラの女王だっ。ぐっはー。これはあかん。あかんですたい。ズッコンバッコンですたいッ。ベッドに芳しい染み作りまくりですたいッ!
ついには崩壊してしまった。直子の知性が。
「そ、そんなこと誰にも言えませんよ先生!」
直子のエロ親父な口元とは対照的に、彩が満面の笑みを浮かべた。
「よかったぁ。話したのが直子でよかったよ。ちょっと、複雑でさぁ。さすがに大声で言えないじゃん、こういうのって」
「うんうんうん。私以外の人には絶対に言わないほうがいいと思うよ」
「だよねぇ。もう、誰にも言わないようにするよ」
「そうだね、うん。それがいいよ。私も絶対にしゃべらないから」
「ありがとー。直子って、イイ人だね」
「あはははは」
いやはや。美人ってのは恐ろしい。こんな人生が待っているとは。モテるってことは取り合いになるってことで、その戦いは当然のように、泥沼化するんだ。お義兄さんが中心で、そこに自分に自信のある彩のお姉さんと彩が、絶対にモノにしてやると、攻防を繰り広げる。美人ってのは、本当に恐ろしい生き物なんだなぁ。
直子は自身と、波乱に満ちているであろう友人とを比較して思った。
「私、普通の顔でよかったよ」
「いきなりどうしたの?」
「んー。人生について一つ、大人になったかなって」
「何言ってんの?」
「いやぁ。先生には及びませんよって」
「ていうかさ、先生ってなによ」
「それはもちろん人生の」
と言ったところで、ハッと、気が付いた。
「そうか、そうだよね。それは放課後が楽しみだよね」
渋い顔で頷いていると、何を言っているんだコイツは、という表情で彩が見ていた。
「えっと、さ。何か、勘違いしてない?」
「いやいや。わかってます、わかっておりますとも」
「本当に?」
「もちろん。ほら、本物の先生が来たよ。チャイムはまだなのに、やる気があるねっ」
「なぁんか、違和感があるんだよなぁ」
しかし、真面目な彩は準備をし始めた。
直子は微笑み、私は影ながら見守るからね、と心の中で呟いた。
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