第3話

 松田弘樹の住所が変わった。

 住んでいたアパートが建て替え建ち退きとなり、追い出されてしまったからだ。新しい住処を探していると、同じジムで、さらに同じ大学だった先輩が、イイ話があると誘ってきた。妹さんのルームメイトとなり、お世話係をするというもので、費用は担い、さらにはちょっとしたお小遣いも頂けるというのだ。いろいろ考えたが、常に金欠であるため、背に腹はかえられないと、その条件を受諾した。

 そして、今日は妹さんの引越しの日である。半強制的に手伝いに駆り出された弘樹は、先輩である沙耶との待ち合わせ場所、駅前に来ていた。


「……って、男!?」


 けれどもその姿を探す途中、甲高い叫び声を耳にして驚いた。見てみると、大きな旅行カバンを担いでいる元気一杯の少女が、誰かに向けて大きく口を開けて抗議していた。

 ハハハ。やんちゃな女の子もいるもんだ。

 他人事だと思って笑っていると、視線の先では、なんと残念なことに、弘樹の待ち合わせ相手である沙耶がおり、その上、こちらに手を振っているではないか。

 おいおいおい。まさか、あの子が?

 考えたくない未来を想像しながら近づくと、再び、少女が大声を出した。


「頭おかしいんじゃないの? なんでうら若き乙女が男と二人暮らししなきゃなんないのよっ。普通じゃない、普通じゃないよ。狂ってんじゃないの!?」

「何言ってんの。大丈夫。あんたを襲う趣味なんてないはずだから」


 ね、と同意を求める形でこちらに視線が送られた。少女は気付いていないようだ。

 なんというか、返答に困るわぁ。

 弘樹は苦笑した。確かに、そんな趣味はない。女子高生だなんて、別人種もいいとこだ。子どもすぎるし、性欲の対象にもならない。とはいっても、だから「はいそうです」なんて口が裂けても言えない。そんなことしたら怖い怖い女の子を敵に回してしまう。ゆえに、安易に返答できない。

 声をかけ辛く感じていると、さらに、少女はバッグを地に置いて続けた。


「趣味じゃないって、どういうこと? 私、これでも結構モテたのよ?」

「だったとしても、たかが毛の生え揃ったばかりの中学生でしょ」


 先輩もなんてことを駅前で言ってるんだ。

 か、関わりあいたくねぇ。

 弘樹は、自分の過去を脳から引き出して、恥ずかしくなった。そんな状態で、二人に踏み込むことは到底できないでいると、滝が上から下へ落ちるのと同義で口論はますますエスカレートしていった。

 あーだこーだ、あーだこーだ……。

 しかし弘樹は突っ込まない。ここに現在も住んでいる彼にとって、他人の振りをするのが最も有益な手段だからだ。と少しは引越しに協力的な姿勢を見せるも、本当のところ、帰りたくなっていた。引越しの手伝いなんて面倒くさいし、こんな時間があったら縄跳びや走り込みといったトレーニングの一つや二つをしていたほうがよっぽど有効的だと感じていた。

 というのも、彼は大学生にして、5戦2勝(1KO)3敗の無名ジムの無名プロボクサー。前回の試合での屈辱を晴らすために、たくさんある課題の一つであるスタミナを克服したいのだ。打ち終わりにガードが下がったことも気になる。こんな時間があるなら、正直、練習がしたいと願っていた。

 沙耶とはそこのジムで知り合った。弘樹が高校生のころからそのジムでトレーニングをしていることから、長い付き合いになっている。淡いことなど何もなく、ただ、無駄話をする中であり、プロボクサーになったきっかけを知っている数少ない人物だ。

 きっかけといっても、情けないことに、男子高校生はプロ育成コースのみ、というジムのルールを知らず、流れ流れるままに、ジム唯一のプロボクサーとなったわけなのであるが。

 と、昔のことを思い出しているうちに、どうやら戦いは収束に向かい始めているらしく、トーンが段々と低くなってきた。


「で、何でお父さんとお母さんが男との生活を認めたのよ?」

「私の紹介だし、面接もしたからね」

「面接?」

「そう、面接」


 早く終わらねぇかな。けど、面接か。あー、いやなこと思い出した。

 弘樹はその単語に、自然と、竹上家の両親の顔を想起させられた。あれは、日常生活では到底体験できない、恐竜が日本を侵略しに来たレベルの非常事態なものだった。どれだけ女子高生に興味ないかを言わされ、熱弁させられたのだ。そして、それ以上にやらなければならないことがあると告げさせられると、破顔一笑して、「まぁ、これからは三年間、彩に悪い虫が寄り付かないようにあの子のことを頼むよ」と背中を叩かれ、プレッシャーを掛けられたのだった。

 プロでの対戦成績が5戦もあるはずなのに、あの父親と母親には勝てる気がしなかった。こちらが試合開始とともに左ジャブで距離を測ってリズムをとろうとしたところ、いきなり初弾からカウンターをクリーンヒットで合わせられ、不意のダメージに驚いているところにラッシュで完全相手ペース。ガードの上からお構いなしに叩かれまくって気が付いたらレフリーストップのTKO負けという具合だ。マジで反則だろ、アレは。

 苦い経験を脳に収め、ようやく沈静化してきた女性たちに挨拶をしようと近づいたが、またもや、その行為を少女が遮った。


「面接してお許しって。何、その人、ゲイなの?」


 おい。なんでそうなる。

 結局立ち止まり、頭の中だけでツッコミをした。


「たぶん、違う。色々あって、今はそんなことにかまってられないんだって」

「そんなことって……」

「だから大丈夫」

「いや、あのさ。もしかしてさ、変態さんとかじゃないの?」

「……え、なんで?」

「ホラ、等身大のお人形さんにしか興味がないとか、二次元の女の子しか受け付けないとか、他の動物にしか興奮しないとか、いろいろあるじゃない。だから私のことをそんなこと扱いできたりするのよ」

「あー。それは考えてなかったわね」

「でしょ?」

「どうなんだろ? その可能性は否定できないわね」

「お願いしますから否定してくださいよ」


 これ以上会話を進めさせると、ろくな事にはならない。嫌々、弘樹は姉妹の過激なコミュニケーションに参加してしまった。


「俺はそんな変態さんではありませんから」

「あら、違うの?」

「違いますよ」

「でもゲイかもしれないって噂はジムでも流れて……」

「流れてませんから」

「えっ、知らないの? まー、しかたないよね。本人が知らないのも」

「え、え? マジなんスか? 本当に? 俺がゲイって?」

「う・そ♪」

「そりゃねぇっすよ、先輩」

「ふふん。早く話しかけなかった罰よ」

「きびしいっす」

「えっと、すみません。もしかして、あなたが松方弘樹さんですか?」

「松田だ、マツダ」


 横で、ぶひゃひゃと涙流しながら大きな口をあけて沙耶が笑っていた。


「釣り、釣りよ。趣味は釣り。それしかないわっ」

「ちょっと先輩。ずいぶんおもちゃにしてくれますね」

「いやさ、だってさ。松方……、ぶっ」

「俺は俳優じゃないっすから」

「でも趣味は?」

「釣りです。って、言わせないでくださいよッ」


 ぶひゃひゃひゃひゃって、色気が全くねぇ。

 しかしこの女、遠慮なく腹抱えて笑いやがる……。


「あの、なんかすみません」


 弘樹に謝ってきたのは、だいたい160センチぐらいの、沙耶の妹である。なるほど、モテたというのはあながち間違いではないのかもしれない。あどけない彼女は、成長すれば沙耶のような美人になると容易に想像できる容姿であった。小ぶりな顔やぷっくりした唇も魅力的なのだが、印象的なのは強い意志を持つ瞳だ。耐性がなければ、見つめられるとひとたまりもないだろう。同年代の男の子には。


「あぁ、今日から一緒に住む人間だ。よろしく」

「え、あ、はい。竹上彩です。よろしくお願いします」

「どうも。相手が可愛いお嬢さんでよかったよ」


 挨拶をしたが、それでも心なしか戸惑っているように、弘樹には思えた。

 可愛いってのがいけなかったのか?

 疑問に感じていると、彩が続けた。それで疑問が解決した。


「えっと。彼女さんは知ってるんですか?」

「知らないよ。伝えてないし」


 なんだ、そんなことか。

 伝えるタイミングがなかったという理由もあるが、弘樹は、そもそも彼女である晴香にルームメイトのことを知らせる必要性を感じていなかった。だいたい、付き合っていること自体、弘樹が所属するジムの会長が「強くなりたきゃ女を知れ」とアドバイスしたことが要因となっているのだ。女性の心の機敏を深く考えていない。

 だが、それが少女にとってNGらしい。人差し指を向けられて、


「コイツ、最悪じゃん!」


 とのたまった。

 俺、この子とやっていけんのかな。

 快晴の下で、弘樹の顔が曇った。

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