第7話

それからの美香子は、朝10時に家を出て電車を乗り継ぎ病院に向かい、幼稚園バスの迎え時間までに帰宅するという毎日となった。

病院には顔見知りになった看護師もいて、毎日遠くから通う美香子に“ご主人は幸せね”と声をかけてくれる。

そんな時は、ほんの少しはにかんでみせる。

肯定とも否定とも取れるような、曖昧な笑顔だ。

実際、美香子の様子は愛する夫を支える献身的な妻だ。

しかし本当のことを言えば、夫に恨み言のひとつも言わせないために、抜かりなく世話をしているだけなのだ。

そこに愛があるか?と問われれば、情はあるけど愛は無いと即答するだろう。 

夫の回復は目覚ましく、2週間程度で身体的機能はほぼ正常に戻った。

しかし、言語の方に障害が出ていて、上手くしゃべることが出来ないようだ。

美香子に意味不明の言葉で八つ当たりする日も少なくなかった。

病院の中ではそんな夫を優しく受け止め、見守る妻を演じたが、病院を出る頃にはイライラが頂点に達しそうになる。

かろうじて自分を押さえ込みながら電車に揺られる日々が続いた。

街中(まちなか)はそこかしこにクリスマスの装飾が施され、年末に向けての最後のイベントに皆浮き足立っているように見える。

誰それ構わず敵意を感じるほど、美香子はささくれ立っていた。

家に着くなり、冷凍庫を開けてカップを取り出す。

気持ちが治まるまでの時間が、以前よりも長くなっている。

しかしそれでもカップの冷たい感触に、激高して熱の上がった身体は冷やされていくのだった。

入院して3週間が過ぎた頃、退院は3日後との話を受けた。

と言っても、言語が回復したわけではない。

これからは自宅でリハビリを続けながら、ゆっくり回復を目指していくことになる。

美香子は憂鬱な気持ちで夫の病室を訪ねた。

これからは病院の一時(いっとき)だけでなく、自宅で始終夫の八つ当たりを受けるのか……と気が滅入った。

しかしその日の夫は穏やかだった。

病室に入ってきた美香子を見たなり、嬉しそうに微笑んでいる。

こんな夫を見るのは久しぶりだ。

どうしたのだろう……。

美香子は訝しげに夫の傍に寄った。


「はや、く……、かえ……りたかった」


美香子の目をじっと見つめながら、たどたどしい言葉で語りかけてくる。

え?

美香子はまじまじと夫の顔を覗きこんだ。

どうやら退院の報せは夫にも伝わっているようだ。


「お、まえが、いる家、が、一番いい……」


……何を言ってるの?

美香子の胸に、針を刺した様な痛みが走った。


「いつ、も、ありが、とう」


夫は照れたように笑って、窓の外に目を遣った。

柔らかな日差しが彼の姿を包み込んでいる。

不意に美香子は、プロポーズの時の笑顔を思い出した。

いつものように笑おうと顔を歪める。

長い間、当たり前のように嘘の笑顔を重ねてきたのに、今はそれが上手くいかない。

ごめんなさいね、ちょっとお手洗いに。

美香子は努めて冷静を保って病室を出た。

足早に廊下を歩いて、人気(ひとけ)のない階段の踊り場にたどり着く。

涙が次から次へと溢れて止まらなかった。

不意打ちのように聞かされた夫の言葉を、何度も胸の中で繰り返す。

自分は何故泣いているのだろう。

答えが見つからない。

ただひとつ分かったこと。

夫は、純粋に感謝していたのだ。

まるで見せつけるかのような、嫌味なほど完璧な毎日に。

何一つ気の利いた言葉をかけてくれることもなく、そんな毎日を当たり前のように過ごしているのだとばかり思っていた。

長い入院生活が彼を気弱にさせたのかもしれない。

それでも、あれが嘘の無い本音だ、と信じたい自分がいる。


「ずるい……。今まで何も言ってくれなかったじゃない」


美香子はまるで子供に戻ったかのように、しゃくりをあげて泣き続けた。

それからどうやって電車に乗り、家に着いたのだろう。

帰宅した美香子は、冷凍庫をゆっくり開けてカップを取り出した。

いつもと同じ、カップだ。

なのに、よく見ると8年という時間の経過を物語るように、パッケージの印刷が擦れて薄汚れていた。

今更ながら、そんな些細なことに気がつく。

思い立ったように、蓋を開ける。

アイスクリームの表面にはびっしり霜がついていて、ひどくザラザラしている。

スプーンで霜をこそげ取ると、濃い黄色と茶色味がかったクリーム色のマーブルが顔を出した。

その表面はこわばったように固まっていて、明らかに味の変質をうかがわせた。

美香子はぼんやりその表面を眺めていた。

次第にそれは融けはじめ、緩やかな液体に変わっていく。

それと共に、自分の中の凝り固まった何かが溶け出していくような感覚があった。

シンクに融けきったアイスクリームを流す。

8年間美香子を鎮めてきたカップを捨てる。

ゴミ箱の蓋を閉めて顔を上げた美香子を、窓から差し込んだ日差しが眩しく照らしていた。


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