第5話

その日夫が帰宅したのは、日付も変わった深夜だった。

泥酔、までとはいかなくても、呂律も怪しく足取りもおぼつかない様(さま)でタクシーから降りた姿を、甲斐甲斐しく出迎えて見せる。

タクシー運転手の迷惑そうな顔に、申し訳なさそうに困ったような笑顔で対応する。

それだけで、運転手の美香子を見る目が同情に変わるのだ。

タクシーが走り去ったのを見届けて、玄関先で転がっている夫を追いかける。

すでに高いびきを掻いている姿に辟易したが、このまま朝まで放っておくわけにもいかず、無理やり起こして寝室に連れ込んだ。

スーツのままで寝かせるのは嫌だったが、着替えさせるには力が足りなかった。

どちらにせよ、明日にはこのスーツはクリーニング店行きだ。

だらしのない夫の姿に、イライラが募る。

適当に布団を掛けると、美香子は足早にリビングに戻った。

冷凍庫を開けてアイスクリームのカップを取り出す。

遠田に会った後、帰りがけに近くのコンビニで思いついたように買ったものだ。

普段はほとんど自分のためにはアイスクリームなんて買わないのに、その日は何故か目に留まった。

期間限定商品で、レモンのシャーベットとバニラアイスクリームのマーブルらしい。

2年ぶりに会った遠田は、相変わらずな男だった。

即日会うことに怯(ひる)んだくせに、まるで再会を待ちわびたかのような素振りで喫茶店に入った。

地元に帰ってから今までのことを、まるでドラマの主人公にでもなったかのように話し、挙句の果てには「花井を忘れられなかった」などと陳腐な台詞まで言い放った。

時折相槌を打ちながら、欠伸がでそうになるのをひたすら堪(こら)えて、美香子は向かい合ってコーヒーを飲んでいた。


「それにしても綺麗なったな、オマエ。旦那と上手くいってんだな」


上手く……、何を以って“上手く”と言えるのか?だが、日々の暮らしに不安がないことは確かだ。

不満は大いにあるが。


「ええ、おかげさまで」


ほんの少し、含みのある棘を刺す。

その言葉は思惑通り、遠田のプライドを刺激したようだ。

焦ったように湿った掌(てのひら)で美香子の右手を握ってきた。


「でもなあ、平凡な毎日じゃあつまんねえだろ?昔みたいに、楽しみたいよな?」


まるで夫よりも自分の方がいいのだと言わんばかりの台詞にうんざりした。

しかし、表情には出さない。

柔らかく笑って、テーブルの上で握られた手をそっと剥ぎ取る。


「お気遣い、ありがとう。私、これでも毎日楽しいの」


そろそろ潮時だ。

コーヒー代を差し出して、唖然としている遠田をひとり残して喫茶店を出た。

駅に向かう道すがら、自然に笑いが込み上げてくる。

どうしてあんな馬鹿な男と付き合っていたのかしら。

それも好きでたまらなかったなんて。

それにしても、あの豆鉄砲でも食らったような顔!

別れた女は不幸でいてもらわなくては困るのね……。

2年間、遠田のことを引きずっているつもりは無かった。

だが、夫に不満が募るたびに、別れた男と比較している自分は感じていた。

そして比較しては、どっちも下らない男だということに気付く結果となってしまった。

美香子は2年前に自分を捨てた男に復讐した。

多分今頃、遠田のプライドはズタズタだろう。

地元でも都会でも、更には女にさえ、すべてに見捨てられたような現実を叩きつけられたのだから。

この残念な男に、最後の制裁を与えたような気分だった。

美香子の胸の内は、スッキリしていた。

電車に揺られながら窓に映る自分の顔が、久しぶりに輝きを増しているのを感じる。

最寄駅に降り立ってから、牛乳が残り少ないことを思い出してコンビニに寄った。

ふとフリーザーの陳列棚を見ると、期間限定のアイスクリームが新発売を謳って並べられていた。

2,3種類の中に、そのレモンとバニラのアイスがあった。

スッキリ味のレモンに、甘いバニラ。

その時の美香子の気分にピッタリだった。

いつもは素通りする商品を買ったのも、あまりに気分が良かったせいだ。

帰宅して服を着替え、キッチンに散らかった食器を片付けて風呂に浸かる。

身もさっぱりしたところで、先ほどのアイスクリームを食べようか……とした時に、タクシーに乗った夫が帰ってきたのだ。

そして夫を介抱して再びカップを手に取った時、不思議と夫に対するイライラがスッと収まったのを感じた。

それはまるで、なにかのおまじないのようだった。

美香子はしばし考えて、そのカップを冷凍庫に戻した。

今、食べなくてもいいわ。

また今度……。

それから8年間、そのアイスクリームは、美香子がイライラするたびに冷凍庫から取り出されて、彼女の心を鎮める役目を果たしてきたのだった。


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