第4話
その電話がかかってきたのは、結婚2年目の秋だった。
夕食のテーブルセッティングが終わって、後は夫が帰宅するのを待つばかりというところに、「今日は飲みに行くから夕食はいらない」と連絡が入った。
いつも5時半までには連絡が欲しいとお願いしているのに、この日も連絡は7時を過ぎていた。
電話を切った途端美香子の頭には血が上って、セッティングした食器を投げるようにシンクに叩きつけた。
人には完璧を求めておいて、自分はどうなの?
怒りは収まるところを知らず、大切に使っていた皿が何枚か粉々になった。
その時だ。
再び電話のコールがけたたましく鳴り響いた。
途端に、美香子の怒りは萎えていく。
この状態を、自分以外の誰にも曝すわけにはいかないと無意識に理性が働くのだ。
一呼吸おいて受話器を取る。
「……花井?」
遠慮しがちな男の声が電話の向こうから届いた。
花井、とは美香子の旧姓だ。
この電話に、旧姓宛てで掛けてくる男なんて、一体誰なんだろう……。
美香子は訝しげに耳を澄ました。
「花井、俺だよ、遠田」
……あっ。
どうして忘れていたのだろう、この声を。
あんなに好きで好きでたまらなかったのに。
遠田は大学時代のゼミの仲間で、ふたりは長く付き合っていた。
それが卒業と同時に地元にUターンする遠田が、遠距離恋愛は自信が無いと一方的に美香子を振ったのだ。
美香子はそのまま就職し結婚して今に至る。
それにしても、どうしてこの電話番号を彼が知っているのだろう。
「遠田君、なの?びっくりしたわ」
「電話番号、ゼミの奴に教えてもらってさ。花井、結婚したんだな」
ゼミの奴って、きっと幸代ね……。
相変わらず口が軽い女だわ。
美香子はイラッとしたが、かろうじて怒りを抑えた。
大体、この電話をもし夫が取っていたなら、どう弁明するつもりだったのだろう。
「ええ、2年前に。ところでどうしたの、急に」
「俺さ、こっちに戻ってきてんだよ。花井に会いたいなあって思ってさ」
よくもそんな事が言えたものだ、と美香子は鼻白んだ。
遠田の性格はよく知っている。
面倒なことからは逃げる癖に、自分の都合が悪くなるとコロッと態度を変えてすり寄ってくる。
付き合っていた頃は、そんな遠田を繊細で自分を必要としてくれる相手だと思い込んでいた。
今の状況も、当時の自分が見れば“遠距離恋愛で会えない時間に耐えられそうになくて泣く泣く別れたものの、やっぱり未練があって電話をかけてきた”と思ったに違いない。
しかし現実は、“長距離恋愛なんか金も時間も勿体ないから別れた、しかし地元に馴染めずまた都会に戻ってきた、それでも上手くいかず、昔の女が自分に未練を残していると決めつけて電話をかけた”というところだろう。
本当に馬鹿な男だわ。
「なあ、いいだろう?」
遠い昔に聞き覚えのある、ねっとりと絡みつくような声が囁いてくる。
「……分かったわ、今からでもいいかしら?」
「えっ」
さすがに即日会うことになるとは思っていなかったのだろう。
遠田は素っ頓狂な声を上げた。
甘い声で主導権を握っているつもりだった男は、途端に落ち着きが無くなった。
「いや、今からじゃあ旦那だって帰ってくるだろ?」
「大丈夫よ、今日は飲みで遅くなるようだから。これを逃したら、会う約束なんて出来そうにないわ」
逃げ腰になっている男に有無も言わせず、待ち合わせの駅を告げて今から出るわと電話を切った。
よそ行きのボルドーのワンピースにグレーのカーディガンを合わせて、化粧をし直す。
普段は入れることのないアイラインを入れ、丁寧にマスカラを塗った。
地味な作りの顔は、それだけでひどく化粧映えする。
きっと会った瞬間に、遠田は後悔するだろう。
手放してしまった女の、幸せそうな姿に。
自分と別れて幸せを掴んだ女ほど、悔しいものはないに違いない。
美香子は久しぶりに感じる、挑戦的な気持ちでドアを開け、玄関から勢いよく歩き出した。
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