第17話 始点

 その家の前に立って、ナエは自分の体が自分のものでないような不一致感を抱いた。それは時折少女に訪れる寒気に似た感覚だった。

 ケイイチは黙って、車のドアの横に立っている。

「行っておいで。何があるか、わからないけど」

 ケイイチは静かに言った。

 声を返せず小さく頷く。

 一歩、踏み出す動作を強く意識する。

 前へ進むんだ。歩くんだ。言い聞かせて、ドアに手を掛けた。

 一見して廃屋と分かるアパートのその薄いドアは容易く少女を受け入れた。

 暗い。

 埃と濁った空気に満ちて、腐った木の匂いがした。

 家具か床かが腐敗しているのだろう。

 長い間人に忘れ去られた場所だと一目で分かる。

 部屋はごく普通の、下級層の暮らす平凡な、そして親しみなれた様子をしていた。

 ナエは恐る恐る一歩ずつ踏み入っていく。

 玄関は開けたまま、そこからケイイチの車が見えた。

 ケイイチからこの部屋についての説明は一つもなかった。

 隣の隣の町まで車で二時間かもう少し。遠いけれど、現実的な距離だった。

 言われなくてもここが何か、分かる。

 何かうるさいなと思ったら自分の呼吸だった。

 意識して口を閉じて、先へ進む。

 ある場所に差し掛かって、ナエの全身に一瞬で寒気が這い登った。

 人の気配のようなものを感じたのだ。

 見渡しても朽ち行く家具と生活の名残しか見当たらない。

 リビングのドアを抜けて、はっとして足元を見る。

 靴の下の床の色が変わっていた。

 その場所だけ、不自然に。

 ナエは後ずさる。埃の積もったその下の、ブラウンの床の上に何か零したような黒ずんだ染みが広がっている。

 改めて廊下を見渡した。

 次の部屋のドアと、二階へいたる階段。階段だ。

 階上から足音が聞こえるように錯覚する。

 危険を告げるように心臓が早鐘を打つ。

 身体が強張って、目が離せなかった。

 今しもそこから表れるのではないか? 毎夜、母の、そしてこの身の命を奪う黒い影。瞬きをした次の瞬間目の前に居て、あの憎悪の血走った目でこちらを覗き込む。

 そんなふうに思えて、瞼すら動かせない。脂汗が顔に浮く。

 聞こえるような気がしたのだ。

 足音。古い木の床をぎしぎしと踏み鳴らして、階段を一段一段ゆっくりと下りて、わざとこちらに報せている。今行くからそこで待っていろ、と告げるように。

 ふいに気付いてナエは手の中を見る。

 銃を望んだ目が見つけたのはからっぽの小さな手のひらだった。

 はっきりとこの感覚が恐怖心なのだと自覚してしまう。

 もう顔を上げて視界に階段を認める勇気なんてかき集められなかった。

 足に力が入らず床に膝をついた。

 震える身体に気付いて、でも、一体誰が震えているのか、わからなかった。

 自分自身か、それとも。

 思考と身体が分離していくような心地。

 今誰が、怯えているのだろう。今誰が、震えているのだろう。

 口を開いて息を吸った。埃っぽい空気にむせる。

 床に何か雫が垂れて円形の模様を作った。汗か、涙か。

 寒くて熱くて、混乱する身体を固く抱きしめた。

「シュウ、シュウ」

 昔、ここに、母が居た。誰かと二人で暮らしていた。

 そして、ここで、寸分間違いないこの廊下で、一人になったのだ。いや、違う。

 それでも二人。胎内に小さなもう一人。

「シュウ……」

 固く目を閉じた。

 溢れそうになる何かを堪える。頭の中でひらめくのはいくつもの夢での記憶。

 それから、最後に見たシュウの夢。



 ナエはそれを待ち望んでいた。望んだとおりに事は運んだ。

 いつものように襲い来る、あのいやな目をする男を待ち構えていた。

 手には銃を持っている。

 小さな、頼りなげな、でも確かな重さと冷たさ。

 今度こそ、そいつが死ぬまで撃ってやる。一発の命中で満足するものか。徹底的に、完膚なきまでに、完全に、息絶えさせるんだ。

 もう殺されてなんかやらない。

 シュウを守る。

 この悪夢をぼくが終わらせる。

 シュウと夢を同じくするナエは勇ましく立ち向かった。

 男は階段を下りてやってきた。

 熊のような狼のような、獣の姿をしていた。

 それなのに目は相変わらず人間のもので、そのミスマッチさが嫌悪感を抱かせる。

 大きく開いた口から吹き荒れる風の音を立てて、妙に緩慢に思える、その実素早い動作で襲いかかる。

 獲物が無力なことだと知っている傲慢さを目に灯し、それを仕留めることに確かに快感をおぼえていた。

 その目を、見据えて。ナエは引き金を絞った。

 獣の頭部が弾けて肉と鮮血が散る。

 獣の身体が反り返り倒れかけ、踏みとどまった。

 ナエは立て続けに弾を放つ。何発篭っているだとかそういうことは考えなかった。

 そうすれば弾は無限だった。

 本来どこまでも都合よく考えられるはずの、これは夢なのだから。

 そして夢の中、全勝のはずの獣の頭が次々赤く弾けていった。

 さっきから一歩も近づいていない。とうとう首を失って獣の身体がどうと倒れ、花瓶が倒れて水をこぼした様そっくりに血が床を濡らしていた。

 そうなってからも、用心から、あるいは恐怖心から、興奮したナエは引き金から指を外していなかった。四肢に、胴に、心臓に、容赦なく弾丸を浴びせて、ようやくそれの死を認めた。

「……やった」

 呆然と呟く。

「ママ。……シュウ。やったよ。ぼく……」

 勝利の歓喜に笑みを浮かべた。

 この夢を同時に体験しているシュウもきっとほっとしていると思う。

 殺されずに済んだ夜。もしかして、目が覚めて繭のところへ行ったら、何かいつもと違うことが起こっているかもしれない。そんな期待に胸が高鳴る。

 できたんだ。やっつけたんだ。

 ぼくがママを救ったんだ。

 誇らしい気持ちになって、再び仕留めた悪ものの死を確認しようと思った。

 そして足元に倒れる死体に目を向けて、息が止まった。

 何が倒れている?

 獣じゃない。黒々とした影でもない。

 それは人の姿をしている。

 それは、大人の、男だった。

 何発も浴びせた銃弾の跡はどこにもない。

 たった一発、目を打ち抜かれているだけだった。

 その程度で、もう事切れて、倒れていた。

 ごとん、と床に重たいものが落ちた音。

 拳銃が一度跳ねて転がった。

 今何を殺したんだろう。

 気付けばそれこそ獣の咆哮のように悲鳴を上げていた。

 事実を拒絶する叫びだった。

 ちがう、ちがう、ぼくの悲鳴じゃない。シュウだ。

 これはシュウの悲しみだ。シュウの後悔だ。シュウの懺悔だ。シュウの弁解だ。シュウの、シュウの苦しみだ。このまま酸素欠乏で死ぬまで叫ぶつもりなのかと、長い間声をあげていた。

 喉が焼けるみたいに熱い。

 こんなことは初めてだった。

 眼球がこぼれ落ちそうなほど目を開いて、のけぞった喉が震えていまも声を吐き続けた。爪が頬を引っ掻いて皮膚をえぐる。それに構わずかきむしる。

 やめて、やめてとナエは訴えるのに聞き入れられない。

 シュウとナエとで共有しているひとつの体はいまや完全にシュウのものだった。

 シュウの意志で動いている。初めてのことだ。

 そしてシュウは、声を嗄らして、床に崩れ落ちる。

 両手をついて身体を支えて、それから右手で床を探った。

 銃身に触れて、一度びくっと跳ねた手が、再びそれを握った。

 固く冷たい感触。

 右手がゆっくり引き戻される。

 それは自らの頭上へ運ばれて、ナエは銃口の冷たさをこめかみに感じた。

 指に少しずつ力がこめられる。

 はーはーと荒い呼気が聞こえる。

 上下する肩。震える指先。今しも引き金が絞られて。

「だめだっ!」

 声は届かなかった。



 そうして結局その行動は夢なのだ。

 実際、どこからどこまで夢なのかは分からない。ナエはこうしてここに居て、しかしこの廊下には夢の現実性を裏付ける証拠があった。

 シュウは過去を繰り返し夢に見ている。

 夢の中では、シュウは過去にできなかったことをした。

 そうするべきだったと主張するように。

「……ママは後悔してるの。

 その人を殺したこと、後悔してる。

 あのとき一緒に死ねなかったこと、後悔してる?」

 過去の幻影に問うように、この過去だけ詰まった家屋の中、ナエは呟いた。

「ぼくを、選んだこと――」

 問いは声にならない。唇を噛んだ。

 感覚はもう落ち着いて、すこし疲労した身体がここにあった。

 だらんと手を下ろして、立っているだけで一苦労といったふうに脱力している。


 ――ねえ。

 ママはずっと、夢の中で過去をやり直しているの?

 シュウはぼくを産んだこと、後悔したの? 

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