第16話 琥珀

 日当たりの良い窓際をむいた籐の椅子がトウマ・コウヘイの定位置で、その膝の上は彼の孫トウマ・ケイイチの定位置だった。コウヘイにケイイチと呼ばれる少年の本当の名はキリヤ・ナエと言って、男の子用の半ズボンやチェックのベストを着て髪も活発そうに短くしていたが本当は女の子だ。

 祖父の膝の上でうつらうつらしながら、この座り心地の悪い骨ばった椅子とも今日でお別れだなと少女は考えていた。

 骨ばっているところはマイナス評価だが、温かいところは気に入っていたし、コウ爺さんはいつも何かと興味深い話を聞かせてくれたので別れは惜しかった。

 でもそれ以上に大切なものが手に入るのでナエに未練はなかった。

 以前から雇い主である本当のトウマ・ケイイチに事情を話していた。

 彼はナエが稼いだ分のお金でアパートの一室を借りてくれた。

 ナエは予定の時間にケイイチの服のまま今までの礼を告げてアパートへ向かった。

 コウヘイに別れは告げなかった。

 家族の者がケイイチは学校の寄宿舎に入ったとか長期旅行に行ったとか適当な理由をでっち上げているところだろう。もしくは今日にも新しいケイイチを彼に与えているかもしれない。

 ナエがアパートで待っていると約束の通りの時間にベルが鳴って開けるとまずスーツの男が礼をした。にこやかな笑顔を浮かべている。

「この度は当社のご利用まことにありがとうございました。今回契約期限が切れまして延長はなしとのことでご利用者さまのお受け渡しに参りました。契約者キリヤ・シュウ様の保証人さまはご在宅でしょうか?」

「ぼくです」

 男の笑顔はびくともしなかった。

「左様ですか。ではご利用者さまはどちらへお運びいたしましょう」

「二階の奥の部屋」

「かしこまりました」

 男が去った変わりに作業着の男が何人か荷物を持ってやってきて、白い緩衝材に包まれた大きな箱とそれに繋がる幾本かの管を一定の距離を保って二階へ運ぶ。

 螺旋階段に苦労するかと思われたが彼らは流石プロで難なく荷物を運び終えた。

「今後もわが社製品のサポートをご希望でしたらお申し付けください」

「どうしたらこの先このままでやってけるの?」

「マニュアルがございます」

「ぼくにもできる?」

「資金があれば可能です」

「これで足りる?」

 ナエは七歳から十二歳までコウヘイの膝の上で貯めた金の振り込まれた通帳を見せた。おや、と言うように笑顔の眉毛が少し釣り上がって、それからまた用意された笑顔に戻った。

「睡眠解除ができますよ。さもなければ一年分がやっとですね」

「……ちょっと考えて、あとでまた連絡してもいい? そしたらまた来てくれる?」

「今夜までにご連絡いただければ。お待ちしております」

「ありがとう」

 彼は子供も大人も客を区別しないらしかった。

 男が丁寧に腰を折って退くと、ナエは二階の奥の部屋へ向かった。

『わたし、もう眠い』

 そう言い残してシュウがスエナ医科工業と契約し低体温睡眠に入ったとき、ナエは七歳だった。シュウはどうして一児の母になれたのだろうというほど若かった。

 シュウについて知っていること。外見に関しては幼いと言っても良い。それは彼女が働いて得た金のほぼ全てをReFに使っていたからで、彼女は大人になることが怖くて怖くてたまらなかったらしい。

 いつも何かに、例えば時の流れや人と接することに怯え、毎晩眠れずに居た。

 目の下には大きなクマが浮かんでいて、どんなに身体を若くしようとシュウの目は歳を重ねていた。

 好きな食べ物、好きな本、好きな色、好きな服――そういうものは、何一つ知らなかった。

 でも、それでもシュウを好きだった。

 五年前。シュウはナエを置いて仮死の長き睡眠に入った。《繭》の管理委託契約が切れるまで、シュウは彼らのもとで安全に眠る。ナエを一人置き去りにしたまま。 しばらく呆然と日々を過ごし、どうやら一人で生きていかなければならないらしいと理解したナエはトウマ・ケイイチのもとを訪ねることになる。

 五年ぶりの再会にどきどきしないわけがなかった。

 ナエはもう身体を飛び越えて先走りそうになる心臓を胸の上から押さえつけて、でも顔は満面の笑顔でママ・シュウを求めていた。

 管理会社の人たちが一通り環境を揃えてくれた部屋の中央に、大きな蚕が紡いだような大きな繭型の容れ物がひとつ、ころんと置かれていた。

 何故か騒がしくしちゃいけないような気がして息を潜める。

 静かにしようと意識したとたん緊張してナエはぎくしゃくと繭に近づいた。

 はじめ、それは白い外殻をして本当の繭のようで、中の様子が覗けないことが不安になった。

 そっと触れてみると、ざらついた表面がなめらかな動作で円を描いてそこに穴を開けた。穴に手を突っ込むつもりで触れると透明な固い表面に阻まれて、その役割を理解した。

 しばらくすると円は再び不透明の白に戻って、もう一度触れると触れた表面の分だけ大きな円が出来た。

 ナエは両手で繭に触れた。

 大きな窓が二つ重なりあって中の様子を見せてくれた。

 そこにはぎゅっと丸めた白いからだがすっぽり収まっていて、身体の上を金の長い髪がまとわりついていた。なんだか最後に見たシュウよりも綺麗になっている気がしてナエはため息をついた。

 とんでもない宝物を手に入れた、と思った。

 そういえば前にコウヘイが話していたことがある。

 コハクという宝石の中に偶然虫が閉じ込められてしまい、そのまま何千年でも時を過ごせるという話。図鑑に写真も載っていた。

 今のシュウはそれと実に良く似ていた。

 こんなにも強く、何かを見て綺麗だと思ったことは初めてだ。

 それに今のシュウの表情はとても穏やかだった。

 もう悲しい顔も、怖い顔もしていない。

「シュウ」

 呼びかけた声は自分でも意図せず弱々しくなる。

 勿論返事は聞こえない。でもそれでよかった。

「安心して。安心しておやすみ。ぼくが守ってあげるから」

 寄せた頬が繭の殻の向こうに見えるシュウの寝顔と重なる。

 こんなに近いことなんて、思えばこれが初めてかもしれない。

 幸福感でいっぱいだった。

 その日夜が来る前にナエは管理会社に電話をかけた。

 繭の管理の方法を知り必要なものを買い揃えるための連絡だった。

 シュウが結んだ契約は一定期間の《繭》の管理・保持で、低体温睡眠の状態を維持するためのものだ。これとは別の覚醒手続きを踏まないと目覚めることはできない。

 通常、もし単身で低体温睡眠に入るならば維持期間の指定の別に目覚めるための手続きは前もってしておくべき事だった。

 ナエが後で確認したところ、シュウは目覚めるための準備が何もなかった。

 目覚めた後のことを考えていなかった。生きながら棺に入ったようなものだった。

《繭》の管理代行会社からナエの手に維持管理が委ねられた時点で、ナエは《繭》をどうにでもする権利があった。維持するのも、利用者を起こすのも好きに選べた。

 でもナエはシュウを揺り起こすことはしなかった。



 一人、シュウの繭の前に居た。膝を抱いて床に座って、静かな部屋で、シュウの命を繋ぐ小さな駆動音に耳を傾けた。

 最初に選択を誤ったのかもしれない、とナエは思った。

 でもどうしても、今もう一度その瞬間に立ち返っても同じ選択をする気がした。

 シュウと向き合うのが怖かった。

 受け入れてもらえないと思った。

縋ることも怖くて、去られたらきっと追えなくて、また一人になる。

「シュウ、あなたって一体どんな人なの?」

 知りたいと思う気持ちに戸惑った。

 ずっと結ばれている感覚があった。夜毎眠りの中で触れ合って溶け合って同じ夢を共有している、それはとても満足できる、幸せな瞬間だった。

 夢の内容がどうあれ、その瞬間だけは身体では経験できないほどの繋がりをシュウに感じる。これが妄想かどうかはきっとシュウを起こしてみなくちゃ分からない。

 ナエは知りたいと思った。

 シュウはどうして《繭》で眠ろうと思ったのか。どうして自分を産み育てようと決めながら、途中で放棄しなくてはならなかったのか。そしてシュウと同じようにして自分に命を分け与えたのは誰なのか。今は何故その人が居ないのか。

 ずっと気にはしていても、明らかにする気は起きなかった。

 シュウとの二人暮らしはナエにとって優しいものだった。

 一方的にシュウに気持ちを注ぐだけで良い、傷つかない日々だった。

 満ち足りていた? 違う。

 それは、楽なだけだ。

 ナエは立ち上がって鏡台へ向かった。

 引き出しを少し開けると一週間以上飲まずに居たサイガの薬が入っている。

 それには触れずにすぐ閉じた。

 鏡に向き直ると、疲れた顔をした女の子が映っていた。

 記憶の中のシュウの目つきに少し似ていた。

 顔のすぐ隣に真っ青な写真が貼り付けてある。この写真を貰ってからもう二年も経ったなんて信じられない。でもたった二年しか経っていなくて、鏡に映るのはまだ子供のナエだった。

 前髪が重たく垂れている。もうひとつの引き出しの奥から何の飾りもないヘアピンを摘み上げて、軽く左右に分けて留めた。

 視界を広くしたかった。

 そうしてナエは部屋を出て、町へ向かった。



 トウマ邸の前まで来た。

 正直な気持ちはヨウにも着いて来て欲しかった。

 でもナエは一人で、門の前に居た。

 ここに二年前までナエは住んでいたけれど、今となっては門を勝手に開くことさえ躊躇われる他人の家だった。

 今日は庭に人の姿はない。

 恐る恐る門を開いて扉の前まで歩く。

 懐かしいと言うより、本当にここに暮らしていたのだろうかと違和感を抱いた。

 ドアベルを押す。重いベルの音がドアの向こう側で響く。

 ハウスキーパーのフキおばさんが二年前となんら変わらないふくよかな体で現れて、途端にここで暮らしていた日々が現実感を持ってナエの頭に蘇ってきた。

「あら! 誰かと思ったら! ケイ坊ちゃん!」

「こんにちは、フキ。ケイイチは居る?」

「ええ、在宅ですよ。お入りになって」

「ありがとう」

「お爺様がなくなられたことはご存知で?」

「うん、知ってる。この前聞いた」

「そうですか。ああ、なら良かった。坊ちゃん居なくなったの急だったから、心配しましたよ」

「あの。坊ちゃんはやめてよ、もう……」

 フキは笑って、つい癖が出て、と言った。

 二年ぶりに会うとは思えないくらい距離を感じさせない態度にほっとした。

 初めて来た時に案内された応接室で待たされ、部屋のカーテンが替わっていることに気が付く。

「ナエ?」

 ケイイチがやってきて不思議そうに呼んだ。

「あの。近頃、なにかと来ちゃって」

「なに気にしてるんだ? いつでも大歓迎だよ。今日はどうしたんだ?」

 ソファに深く腰を沈めてリラックスした様子でケイイチは尋ねる。妻子の姿は今はない。ナエは向かいのソファで体を小さくして座っていて、なかなか本題を切り出せなかった。

 その様子を察してケイイチが確かめるように問う。

「何か、困ったこと?」

 ナエは声なく頷いた。

「きみを頼りたいんだ、ケイイチ」

「うん」

 前もって分かっていたみたいに彼は答える。そして、

「じゃあ、行こうか」

 ナエが何も言わないうちから立ち上がって、手招きした。

 ケイイチがナエを案内したのはガレージで、くすんだワインレッドの玩具みたいな車に乗るように促す。黙って後部座席に座って、ケイイチがキーを回してエンジンをかけるのを見ていた。

「どこへ行くの」

「どこへ行きたい?」

「…………」

「調べてはいたんだ。うちで雇う人の素性くらいは知っておきたいから」

 ナエはずっと無言で、車の窓に映る町並みがやがて知らない景色に変わるのを眺めていた。

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