第15話 迷子
なんだか随分久しぶりのような気がした。
丸い繭。
白いすりガラスのような表面から、中の様子を窺うことはできない。
手で触れて窓を作らなければ中身が何かなんて分からない。
シュウ――母は、何年もそうしていたように今日も眠っていた。
自発的に目覚めることのない管理された眠りに身を任せて夢を見ている。
低体温睡眠者は必要があって定期的に夢を見るよう操作が加えられている。
夢は人の眠りに必ずなくてはならない要素なのだと言っていたのは誰だっけ。
ナエはぼんやりと考える。
多分、サイガだ。
一週間分の薬をサボっていること、次に会うときなんて説明したら良いだろう。
ナエは抱えた膝に顔を埋めた。
アパートに帰ってくるのは二日ぶりだ。
そんなに家を空けていたことは、多分今までに一度もない。
出かけた日のままほとんど変わりなくシュウの繭は正常に稼動しているし、むしろ室内は二日間で以前より整頓されている様子だった。ヨウの仕業だ。ヨウが代行したシュウの世話は適切だし、シュウの脳波もすでに落ち着いている様子だった。
また前と同じ夢を見続ける毎日が戻ってきたのだろうか。
何も起こらなかったかのように。
「ねえ、シュウ」
顔を上げて、ナエは目の前の繭に話しかけた。
答える声や反応を求めていたわけではない。
それなのに少し落胆した。
「ずっと留守にしてごめんね。ヨウの家に泊まったよ。ヨウはやさしいよ。前にシュウにひどいことしようとしたけど、それは多分何かの間違い。それでね、今日はヨウと一緒にトウマの家に行ったよ。ねえ、どうして生まれた子にコウヘイって名前つけたのかな? おじいちゃんと一緒でややこしくないのかな。それとも」
「それとも――もう、おじいちゃんのことは話さないつもりなのかな。小さいコウヘイのことばかりになるの? そうやって忘れるのかなあ」
「シュウ。……そんなに眠ってばっかりで、ぼくのことちゃんと覚えているのか不安だよ」
「ねえシュウ。この前はごめんね。きみがあんなに苦しむなんて、思ってもみなかった。ぼくは、シュウをあいつから助けたくて、そうしたんだよ。でも……」
「どうしてなのかな。死ぬのは、殺されるのは怖くないの? シュウ、それで痛くないの? ぼくはそんなふうに思えなかったんだ。ごめん。ごめんね。どんなにしても謝るよ。だからシュウ、ぼくを嫌いにならないで……」
長い独り言が尻すぼみに消える。
繭からは低く小さな駆動音が聞こえるだけで、なんの答えも返らない。
静寂が耳に痛いほど。
ナエはいつものように繭に触れようとはしなかった。
少し離れた場所から、じっと眺めているだけだった。
今朝シフトを変えてもらった夜番を終えたヨウが家へ帰りつくと、降りたシャッターの前でしゃがみこむ人影を見つけた。
昼間トウマ邸を尋ねた帰りに別れたばかりのナエだった。
何事かと駆け寄ると、ヨウに気付いて立ち上がったナエが少し表情を和らげた。
「ナエ、どうしたの?」
「今日仕事してたんだ? ごめん突然」
「うん、それはいいけど」
「あのね。ごめん。今日も泊めてほしい」
「……シュウのこと、何が起きたかわからないけど、落ち着くまでうちに居ればいいよ。シュウはおれが世話するよ」
「ううん。大丈夫、それはもう平気。なんだけど、その」
「とりあえず中入ろう」
シャッターの鍵を開けて押し上げて、真っ暗の院内へ。
「あのね。寝ようと思って横になって、でも、なんだか怖くて……ううん、怖いのとはちょっと違うけど」
「ナエ、薬は?」
「もう一週間サボってる。あの仕事はもうだめかも」
「そう」
広い診察室と寝室になった処置室を点灯してヨウは応えた。
ナエが怪しい仕事を止めるだけでも不安は一つ減る。
ヨウはそっと安堵した。
「座って。何か温かい飲み物つくる」
給湯室へ向かうヨウの後ろにナエがついてきた。
「お腹空いてる?」
「食べた。空いてない」
「座ってていいよ」
「ここに居ちゃだめ?」
「いいけど……」
狭い給湯室だが二人居ても身動きは容易いが、それ以上に視線が気になってヨウは落ち着かない気持ちで茶を入れる。
ナエの視線はヨウを追っていなかったが、見られている気配が無くてもすぐそこに誰か居るその距離感にヨウは緊張した。
「お茶入れた。向こうへ行こう」
「ここが良い。今、広いところ落ち着かなくて」
診察室は確かに広い。
一人暮らしのヨウはその空間を完全に持て余している。
だから放置されたときのまま機材が置きっ放しになっていた。
埃がたまらないよう掃除されて今もまだ営業中の病院のように見える。
青白い蛍光灯に照らされてがらんとした印象が強くなっていた。
本来人のためにある部屋に誰も居ない。
その条件がいっそう部屋を空虚にしている。
「はい。紅茶」
「ありがと」
「砂糖は?」
「入れる」
「まだショックが抜けない?」
「ううん。もう落ち着いた。だから、ちょっとびっくりしただけって言った」
「ナエの『ちょっとびっくり』はあまりアテにならない」
「そうかなあ?」
「そうだよ」
「そうかあ……」
熱い紅茶を喉に流し込む。
胃の辺りで広がる感覚にほっとする。
内臓があってちゃんと機能してる気がして、自分の体を褒めたくなる。ちゃんと働いていて偉いな。
ヨウが内臓を褒めているあいだにナエも紅茶を飲む。
ほんの一口。温度を少し冷ますつもりでいるようだ。
「久しぶりに……ってわけでもないけど、家で、シュウを見てた」
「うん」
「シュウってきれいでしょ。ぼくと似てる? あんまり似てない気がして」
「それはReFのせいだよ」
「シュウの瞳の色を、思い出せなかった」
「もともと、記憶してないんだよ。きっと。幼かったから」
「そうかな。そうだよね。ぼく、だいぶ大きくなった。シュウが起きたら、ぼくのこと判らないんじゃないかな」
ヨウは驚いた。ナエがシュウが目覚めたあとの話をするのを初めて聞いた。
少し嬉しくなった。状況が動いたような気がした。
「いつ、シュウを起こすの」
「いつ……いつかなぁ」
「いつでも平気だよ。シュウはもう充分眠ったよ」
「そうだよね――」
ようやく適温になったらしい紅茶を飲み下すためにナエは沈黙した。
ナエは気付いたのかもしれない。
眠っている母親相手にどんなことをしても何も伝わらないことを。
今朝まで使っていたベッドに今夜も入って、でも最初から枕の位置はヨウの頭の近くにあった。おやすみを言ってからもナエの囁き声が独り言のような響きを持ってヨウに語りかけている。
「いつもみたいにあの部屋で眠ろうとして。急に寂しくなった。シュウと一緒に暮らしてるのに、なんでそう思ったんだろう。一人ぼっちな気がして、心細くなった。シュウと一緒にいるのに……。こんなの初めてだ。ぼくはシュウと一緒に居られることが嬉しくてたまらなかったのに。この生活はしあわせだった。ずっと離れ離れだったから」
「今だって離れ離れじゃないか。シュウはずっと繭の中だ」
「やっとシュウのそばで暮らせると思ったんだ。あの頃に戻れるって思った」
「ナエ。呼んでも返事をしないものと『暮らしている』なんて言えるの」
「シュウを手に入れた気がした。シュウはぼくのものだ。でも、ぼくはもしかしたらシュウのものじゃないかもしれない。シュウはぼくを、また、置いていくかも」
「……それは、シュウを起こした後の話?」
「うん。ヨウ。どう思う? シュウはぼくを置いていく?」
半ば眠りについた頭で、でもナエがどこかへ行ってしまうのはいやだと思った。
追いかけるほどの執着はないかもしれない。その時になってみないとわからない。
ヨウはかつて母親に連れて行かれた妹のことを考えていた。
メイはしあわせだっただろうか? 多分、否――。
じゃあ、結果として置き去りになった自分は?
急に、喉が詰まるような感覚が訪れた。
息苦しくて、それなのに呼吸の仕方を忘れたように不自由に息をする。頭が熱い。
ヨウは狭いベッドの上で出来る限り体を丸く縮めた。
そうやって何かが通り過ぎるのを待った。
理不尽さとか、無力感とか、名づけるとしたら多分そういう何かだ。
ヨウは唇を噛んだ。妹の無念さを思った。
苦しんだだろうか。それとも何にも気付かずに済んだだろうか。肉親に害されたことに気付かずに――それなら少し、まだ少しだけ救いかもしれない。でも前提として間違っていた。
キョウがメイを連れて行くべきではなかった。
母親が子を殺していいわけがなかった。
なぜ、それなら産むのだろう。
なんのために。どうしたくて、産み育てたのか。その結果があの冷たい海なのか。
ヨウはゆっくり呼吸を繰り返す。
この歳になってまでみっともなく泣きたくなる。
声を上げて、子供のときみたいに、形振り構わず、そうしないと世界が終わってしまうとでも訴えるように、泣き喚きたかった。
でも、できなかった。
「ヨウ?」
「うん――」
答えた声がかすれた。
「シュウがどこへ行くとしても、ナエは自分でどうするか選べるよ。ついて行くか、そのまま別れるか。シュウが連れて行こうとしたら、一緒に行くか、そうしないか、選べるよ」
「選ぶ?」
意外そうな声で問い返す。
「シュウが嫌がったら?」
「無理にでもそうして、あとで理解してもらえば良いよ」
「どうやって」
「話して。ちゃんと。シュウに起きてもらって、それから」
「シュウに、起きて……」
ナエの声が萎んだ。何か考え事をするように。
ナエの怯えがヨウに伝わった。シュウと向き合って話をすることはきっと相当な苦労になる。一度逃げた親だ、ナエがそうしようとしてもシュウが向き合ってくれないかもしれない。
でも、寝たままでいるより状況はずっと良い。
まだ道はある。ヨウには無い道をナエは持っている。
ヨウが取り返せないものを、ナエはまだ取り返せるのだ。
「……ぼく、ずっとシュウと一緒に居なきゃダメだと思ってたのに、今こうしているのが不思議だよ。シュウの傍に着いていなくちゃって思って、そう思えるのが嬉しくて、二度と離れるもんかって思って……なのに、今、シュウと一緒にはいない。それなのに、寂しくない。むしろ、シュウの傍に居るほうが寂しかった。でも、今まで気付いていなかっただけで、もしかしたら本当はずっと」
その先を言うことを躊躇うように口を閉ざす。
寝返りを打って、暗い部屋の天井を見上げて、毛布を肩までかけなおす。
ヨウは今も体を丸めたままでいる。
大きな胎児。生まれたのにまた胎児になりたがる。
キリヤ・シュウはどうして眠りについたのだろう。
生まれなおしたいのだろうか。子を置き去りにして。
ヨウは無理に連れて行かれそうになり、ナエは置き去りだった。
対極なのに、似ていた。
今はこうして足踏みをするばかりで前に進めない。
進むべき道もわからない。
何が惜しくて留まっている、何を失いたくなくて、進めずにいるのか。
「心細くて、迷子みたいだ」
ナエは呟いた。
「でも、行きたい場所なんて」
顔を埋めた毛布の中で声は消える。
そのままいつの間にか、二人は眠っていた。
先に目覚めたヨウは着替えを済ませて、ナエの朝食をベッドへ運ぶ。
自然に目を覚ましたナエがぼんやりした目をこすりながらおはようを言う。
眠いならまだ寝ていればいいと薦めて仕事へ出かける。
ナエは言葉に甘えて二度寝をした。
久しぶりに懐かしい夢を見た。
羊の夢だ。
ナエはやっと、ずっと自分の夢を見ていなかったことに気が付いた。
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