第14話 家族

 ナエがヨウの家に泊まって四日目の朝だった。

 ヨウが目を覚ますとすでにナエは起きていて、でもベッドの上で膝を抱えていた。心配したもののその様子に今までの病的な雰囲気はなく落ち着いていたので安心する。

「おはよう」

「おはよう、ヨウ」

 受け答えもはっきりしていた。

「寝すぎたからかな。早起きしちゃった」

「どのくらい?」

「二時間くらい前かな」

「ずっとじっとしてたの」

「うん。ねえ、お腹すいた」

「わかった。作る」

 体を起こして伸びをして、毛布を抜け出て立ち上がる。

 給湯室へ向かうヨウの背中に問いが届いた。

「ヨウ、今日、暇?」

「え?」

 振り返ると、膝を抱えたままのナエがヨウのほうに少しだけ顔を向けた。

「もし暇だったら一緒に来て欲しいんだ」

「いいよ。行こう」

「うん」

 給湯室で勤め先に連絡を入れた。

 難色を示す声に申し訳なく思いながら、同時にそれをどこか遠くの出来事に感じてしまう。仕事をしている時はいつも現実感がない。

 トーストだけの朝食をとって二人は出かけた。

 ヨウはナエが向かうのはアパート・ビリジアンだと思っていた。方向が逆になって、はじめて問いかける。

「どこに行くの?」

「おじいちゃんの家」

「それって前にナエが暮らしてた所?」

 ナエは頷いて答えた。

 町というのは通り一本を挟んで二分されている。ヨウやナエの暮らす古い建物群のハシュ区から立派な街並みが連なるジュカン区へ。

 ナエの目指すトウマ邸はジュカン区にある。

 バスは使わずに徒歩で時間をかけて屋敷に向かう。ハシュ区の町ではまず見かけない庭付きのひろびろとした家が建ち並ぶ通りの、際立って立派な、でも控えめな装飾の門のある屋敷の前でナエは立ち止まった。

「ここ」

 と言って、門の少し先で立ち止まる。

 柵とその手前の垣根で覆われた敷地内に人が居た。

 ナエは垣根を作る木々に姿を隠して息を潜めた。

「……隠れてるの?」

「う、ん」

 ヨウの問いに詰まりながら答える。

「どうして」

「来たこと、知られたくないから」

 つい囁き声で尋ねるヨウにナエは普通の声量で言った。

 垣根の合間から僅かに見える庭先からはしゃぐ声がする。

 ナエは木々の緑の葉の向こうを見つめていた。

 芝生の敷き詰められた庭で、小さな男の子が危なっかしげに歩いている。

 茶色の髪がふわふわと柔らかそうに、走るたび風をはらんで揺れた。血色の良い頬が嬉しそうな唇に押し上げられて膨らんでいる。障害物の何も無い芝生では転んでも大した衝撃はないから、バランスを崩して倒れても楽しそうにはしゃいだ。

 その姿を嬉しそうに見守っている女性は恐らく母親だろう。庭に設置された椅子に腰掛けて、テーブルには読み止しの本とティーカップが並んでいる。その後ろの屋敷の、庭へ出るためのドアから姿を現したのはトウマ・ケイイチだった。

 カメラを手に持って、相好を崩して男の子の姿を追い始める。

「彼が本当のケイイチ」

「ああ」

「だから多分あの男の子がコウヘイだ」

「うん」

 母がいて、父がいて、子がいる。

 正しい家族像を前にして、ヨウはきゅっと胸が痛む気がした。

 例えば自分の家族に父という欠員がなければ、結果は違っただろうか?

 そう考えて、ナエも同じような思考をしているだろうかと気になった。

「お母さん笑ってるね」

「え?」

「ほら。コウヘイを見てすごく嬉しそう」

「ああ、ほんとだ」

「ケイイチは、カメラ近すぎ」

「ほんとだ」

 男の子の小さな手が間近に迫ったレンズを押し返している様子を見てヨウは笑った。ナエも楽しそうな顔をしていた。眩しそうにその家族像を見ていた。

「もう行こう。覗き見なんて悪趣味だ」

「会っていかなくて良いの?」

「うん。気が済んだし、邪魔したくない」

「そうか」

 ナエはもと来た道を歩みだす。

 和やかな家族の空気に惹かれたのか少し名残惜しかったヨウもその後についた。

 途端に背後で声がした。

「ジュニアじゃないか?」

 びくっとしてナエが足を止める。

 振り返るのはヨウが早かった。

 ナエは躊躇しながら、でも声の主を見た。

 ケイイチだ。カメラを片手に携えたままだ。少し恰幅の良い、でも少し背の低い、陽気な彼が門の内側へ促すように腕を広げる。

「コウヘイに会いに来てくれたんだろ? ありがとう。遊んでやってくれないか? ちょうど良い時間だし、昼飯も一緒にさ。勿論そこの彼も」

「ケイイチ、ありがとう。でも、ごめん。今日はこのあと用事があるんだ。それで近くまで来て、ちょっと立ち寄っただけ」

「そうなのか。残念だ。今度は是非ゆっくり」

「うん。コウヘイ君、元気そうだね。見れてよかった。挨拶もなしにごめん」

「良いさ、いつでも歓迎だよ。ジュニアはうちの家族も同然なんだから」

「うん。じゃあ、またね」

 丁度良く庭からケイイチを呼ぶ声がした。

 ヨウは去り際会釈をして、人のよさそうな屋敷の主人に別れを告げる。ナエは既に屋敷に背を向け歩き出していた。小走りで追いついて横顔へ問う。

「良いのか?」

「うん」

 前を見たまま返事をした。

「確認したかっただけ。もしかしたら、って思ったけど、安心した」

「安心? 何に」

「もしかしたら、本当に、家族になれるかもって」

「ケイイチさんたちと、ってこと」

「そう」

「なら、良かったじゃないか。家族も同然って言ってた」

「うん。でも、やっぱり、なれないよ」

 言葉とは裏腹にナエの声は安堵を含んでいる。

 ヨウには不可解に聞こえた。

 言葉と感情の結びつきがよくわからなかった。

「見たでしょ。すごく安定してた。ケイイチと、ケイイチの奥さんと、コウヘイ。無理だよ。ぼくは入っていけない。あんなに良いバランスを崩しちゃうよ。家族にはなれないよ」

 嘆く色は声にはない。むしろ晴れやかに言った。

「だからやっぱり、ぼくの家族はシュウだけなんだって思った。それが分かった」

 ヨウの疑問はその一言で解消される。同時に少し、疲れる。

 ナエの考えは変わらずシュウを主軸にしていた。

 でもそれを間違いだと断言できるほどヨウだって正しくない。

「ケイイチさんは、シュウのこと知らないんだ?」

「ううん。少しだけ知ってる」

「心配かけてるんじゃないか」

「そうかも。でも、もういいや」

「お世話になったんだったら、そう突き放すものじゃない」

「……わかった。今のは取り消し。ああ、うるさいなヨウは」

 ため息混じりに言った。でも言葉ほど声は苛立ってはいない。

 緊張していた体をほぐすように両腕を上げて伸びをした。

「じゃあ、帰ろうかな」

「あれ、次の用事は?」

「さっきの? ごめん嘘」

「ああ、なるほどね」

 帰り道はバスを使った。

 窮屈に建物の密集するハシュ区のほうがやっぱり落ち着くと、バスの中二人で話をした。

「ヨウは引っ越して来たんだよね。どんな町に居たの?」

「地形が高くて、場所によっては海が見えた。でこぼこした町で、坂道が多くて大変だった。学校まで通うのも一苦労で。坂道のせいですぐに景色が変わるのは楽しかった。はじめて行ったら多分迷子になるだろうな。そんな町」

「そうなんだ、想像つかないな」

「ここは平坦な土地だから」

「向こうに山と線路が見えるだけ」

「あの線路で来たよ。まる一日くらいかかった」

「良いな。少し憧れる。遠くへ行ったことないから。行きたいと思ったこともなかったけど、話を聞くと興味が湧いちゃう。ねえ、どうしてこの町へ来たの?」

 客の乗降のためにバスは一度停車し、運転手のアナウンスが入る。

 その間なんとなく黙り込んで、発車してからヨウは答えた。

「この町は海がないから」

 ナエが言葉を飲む気配を感じた。だからつかさず、

「見飽きたから。知らない場所に行きたかったんだ」

 ヨウは言い訳を連ねた。

「そう。だよね。毎日、同じところだと、見飽きちゃうよね」

 頷いてそう言うナエの声は全く同意していない。

 単なる迎合だった。ヨウだって本心から言ったわけではない。

 会話が薄っぺらなものであるとヨウは悟った。会話というコミュニケーション手段を用いながら、二人はお互いに接しようとなどしていない。

 すれ違う。

 むなしさに、ヨウは息を吐いた。

 隣に座っているのに、遠いな、と思った。

 でも今は隣に居るから、そのぶん何故か、ほっとした。

「ナエは、遠くへ行くならどんな場所に行きたい?」

「建物の全くない景色、見てみたい」

「具体的だ」

「でもあんまりないよね」

「……海はそうだよ」

「ああ、そうかも。いつか行けたら良いな」

「うん」

「例えば屋上とかで上を見れば、建物なんか見えないんだけどさ。でも、ちゃんと立って、前を見たとき、うんと広くて遠くまで、なんにも無い風景って、きっと凄いんだろうな」

「うん。きっと」

「いいな……」

 吐息するようにそう言って、窓の外へ視線を向けた。

 窓のすぐ向こうには建ち並ぶ住宅街や店などの建築物が連なっている。どんなに上品に白く塗装してもやがて灰色にくすんでしまう建物がこの町を作っていた。

 ナエは最後まで「行こう」とか、「行きたい」とかの希望めいた言葉を口にしなかった。本心から望んでいたわけではないのかもしれない。心のどこかですでに諦めていたのかもしれない。

 ナエの本当に行きたい場所は、別にあるのかもしれない。

 だからヨウのほうから「行こうよ」なんて誘うことも、「連れて行く」なんて約束することは出来なかった。

 拒まれることよりも、口約束で終わってしまいそうだから怖かった。そう理解したうえで、断られることを前提に考えて、ヨウは笑って尋ねた。

「じゃあ、今から行く? 海」

「えっ? でも」

 でも。

 ヨウは頭の中で笑った。

 そう、「でも」だ。行くわけがない。行けるわけがない。

 ナエの心はずっとあのアパートの一室に結ばれている。

 あの一室に安置されたひとつの丸い寝台に。棺のような揺りかごに。

「無理言ってごめん」

 返答に躊躇しているナエへ返す。

 気を遣わせたことに居心地の悪さを感じて後悔した。

 後悔すると分かっていたのに言わずにはいられなかった。

 本当は行けるのに。

 たった一言、頷きの一つで、二人でこのバスの執着駅まで行って列車の切符を買って、そうすれば三時間程度で一番近くの海のある町まで辿り着く。

 こんなに簡単なのに。

 どこへでも行けるのに。

 ナエはそうはしない。

 こうして隣に座っていても、きっと想いはあの部屋でシュウを見守っている。

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