第13話 指先
たった今目覚めたような、さっきから目覚めていたことに今気付いたような、気持ちの悪い曖昧な感覚の中でナエは目を開けた。でも視界は真っ暗で、もしかしてまだ瞼が開いていないのだろうかと手で触って確かめた。
びく、と瞼が反射的に閉じる。眼球に触ったせいだ。
乾いた角膜を滲んだ涙が潤した。
ちゃんと目は開いている。
電灯が消えているだけみたいだ。
妙に落ち着き払っている反面、努めてそうしようとしている自分がいる。馴染みのないベッドの硬い感覚に覚えがあって、ここがアパートでないことを知る。
ヨウに頼んで泊めてもらったことを思い出す。
ここはヨウの家だ。
「シュウ」
呟いたつもりで声にはならなかった。
家へ帰らなければ、とナエは思う。
一晩泊まったのだからもう充分。
シュウに食事をさせて、それから体を拭いてあげて、それから各種サインに異常はないかチェックして。シュウがよく眠っていることを、それが健やかな眠りであることを確認しなければ。
でも、きっと、あの日のデータは脳波がひどく乱れているはず。ナエはそれを確認する勇気が出なかった。グラフになった青い破線がきっとナエを責める。シュウが苦しんだ証拠としてそれを突きつけられる。
ナエは後悔と自責の念に歯を食いしばった。
体を固くして、毛布の中で嗚咽を殺した。
涙は出ないのに喉から何かが奔流となって吐き出されるような、それも裂くような痛みを伴って飛び出るような、そんなものが体の中で渦巻いていた。
それが、後悔と自責だ。
守れなかった。
助けてあげる、なんて言っておいて。
そんなの思い上がりだった。
「ナエ? ……起きた?」
いつからそこに居たのかヨウの声がする。
気付けば部屋に明かりがついていて、彼が外出から帰ってきたことを理解した。
返事をするのが億劫だった。
でも毛布を捲られるのも嫌だからナエは体を起こす。
起き上がったのにまだ体の半分がベッドに密着して離れないような気分だった。
重たい。体じゃなくて、別の何かが重いのかもしれない。
「よかった。調子はどう」
「うん……ありがとう。ぼく、帰るよ」
ヨウが運んできたグラスを受け取って水分を取った。
からからの喉が潤って、液体が胃に流れ込むのを実感する。
ヨウはナエの言葉に対して、へんな顔をしていた。
それが心配している顔なのだと気付くのに少し時間がかかった。
どうして心配するのかを理解するためにはもっと時間が必要だった。
「本当に、平気?」
「何が。大丈夫だよ、ちょっとびっくりしただけ」
「でも」
「帰ってシュウの世話をしなくちゃ。一晩も一人にして、きっと寂しがってる」
ヨウはまた変な顔をした。
ナエはもう彼を無視してベッドを降りる。
床に足がついた感覚がないので暫く踏み出せなかったけれどなんとか歩みだす。
ふらつく予感はしてたからいざそうなったとき転ばずに済んだ。
診療所の時計をふと見上げる。
針を読むより先にその悪趣味なデザインに不意に恐怖が蘇った。
目だ。
あの男の目だ。
咄嗟に視線を逸らすと壁のポスターにも目のモデルが印刷されている。
この診療所は眼科で、そこらじゅうに目や眼球の模型や模式図が点在していた。
たったそれだけのことにナエの足は前に進まなくなった。
何を見てもあの男の目を思い出す。
夜毎シュウを殺し、それから――。
「ナエ、やっぱり無理だ」
立ちすくんだナエの正面に回りこんでヨウが顔を覗き込む。
「顔色が悪い」
案ずるように言う、気を遣う目があの男の目と重なって、それから逃れたくてナエは固く瞼を閉じる。
顔を逸らして歯を食いしばる。羊が一匹、羊が二匹、と無意識に数え始める。取り乱したときそうやって落ち着こうとする癖をいつからか持っていた。
「聞いて。シュウの世話を昨日も一昨日も俺がやった。どういうことかわかる?」
羊が六匹、羊が七匹――どういうことかわからない。
目は閉じたまま首を横に振る。昨日も一昨日も自分がやった記憶があった。
「二日間ずっと眠ってた。今朝起きて水を飲んで、かと思ったらまた眠った。覚えてない?」
「うそだ。そんなに寝てない」
「どれくらい経ったと思った?」
「一日……」
「何日か、ちゃんと寝てなかった?」
ナエは素直に頷いて、ヨウを見上げた。
あの男の影はまだちらつくけれど、真正面にあるのはちゃんと、いつものヨウの、すこし透明に見える灰色の瞳だった。
ナエはほんの短い間不安を忘れた。
「もう、今日の分もやってきた。勝手で悪いけど鍵を借りたよ」
「ううん」
それから、と前置きしてヨウは言う。
「この前のこと、ごめん。もうシュウに乱暴なことしないから」
やっと言えた、とほっとしたのは一瞬で次には緊張が待っていた。
許されるか、拒絶されるか。
でも、と思う。
今こんな状況のナエに言い出すのは卑怯なことじゃないだろうか。現状の認識も不十分で、判断力を欠いているのに、許してくれと言うのはずるい気がした。
逡巡したのは数秒足らずの瞬間で、ナエはすぐに答えた。
「わかった。信じる」
許容も拒絶もなく、ヨウは試されたのだ。
ありがとう、と返すのは違う気がして言葉を飲む。
「今日はまだここで休んで行くといいよ」
ナエは渋々頷いてベッドへと引き返した。
ヨウはまだ提げたままの鞄をようやく肩から下ろした。
診察室のベッドに戻って、正方形のタイルの天井を見上げて、そんなに寝ていたかなあと考える。
まる二日と少し。もし本当ならこんなに長い間眠ったのははじめてだし、夢も見ずに寝ていたことは実に久しぶりだった。
充分すぎるほど眠ったのに(だからかもしれないが)ナエは疲れていた。
目を閉じたらまた眠れそうな、でもまだ当分その気にはならないような、曖昧な気持ちだった。
ふと、シュウのことが心配で胸が一杯になる。
シュウは安らかだろうか。
シュウはよく眠れているだろうか。まだあの目の男に追われて、そして死んでいるのだろうか。夢の中で。彼女はまだ死に続けるのだろうか。
どうしてそんなに大人しく、追われるままでいるの?
反抗することもできず、本能を失った草食動物みたいに逃げる意欲を失って、あの男の手にかかって死んでしまう。
シュウ、諦めないでよ。そんなに簡単に手放さないで。
シュウが死んだらぼくは悲しい。
だから守ってあげたかったのに。
――ママ、ぼくのために生き延びようとは考えられないの?
ナエは手の甲を重ねて顔を覆った。
重なり合う指の合間から光が差すのが眩しかった。
涙が出ないのがもどかしいのに、ナエは泣けなかった。ただ妙に息をするのが難しかった。そのせいで胸が苦しい。
いつまでもずっと、胸が苦しいままだった。
溺れているみたいに。
食事を済ませてシャワーも浴びて、つい先週もそうしたみたいに並列に設置されているベッドにそれぞれ寝ていた。
でもナエはなかなか寝付けずに、だからまた枕の位置をヨウの頭のほうに移して、寝息に耳を済ませたり呼吸を数えたりしながら夜をやり過ごした。
寝付けないのは寝すぎたせいだ。
暗闇に目が冴えて、変なものがたくさん置いてある診察室を観察した。
眼球の模型、眼病予防を呼びかける色あせたポスター、目薬の広告、視力矯正の値段表。
ナエは目を閉じる。途端に余計なものが全部なくなって、代わりに浮かぶ光景にナエは意識を集中した。
原体験とも言うべき、まだシュウと生活していた頃の古い記憶だった。
そこにはちゃんと目を開けて起きているシュウが居て、ナエは幼い子供でいる。
あの頃二人は今よりもっと小さなアパートに住んでいて、部屋には二段ベッドとテーブルとキッチンがあって、バスルームはアパートに一つしかなくて他の住人と共有しなければならなかった。
投げ売りされていた色の焼けたカーテンが窓からのささやかな日差しを必要もないのに遮って、ほつれた糸がはじめから用意されたデザインのように映えていた。
カーテンは生地の折り返しのところを覗くと元々の驚くほど鮮やかなターコイズブルーがむなしく残っていた。
でも、そのどぎつい色より今の草色のほうが素敵だ。
子供が使うような二段ベッドを、シュウが上、ナエが下に寝ていた。もともと小柄で子供のままのようなシュウにはそれで充分だったし、幼いナエには広すぎて心もとないくらいだった。
一段目のベッドの上には古びたテディベアが転がっている。
今シュウはテーブルに向かって何か作業をしていて、それをテーブルの奥、少し離れたところでナエがすることもなくじっと眺めていた。
「ママ」
そう呼ぶと、シュウは返事をしない。
「ママ、シュウ」
名前を加えるとようやく首を少し動かす。
でもはっきりとはナエを見ない。
「お腹すいた」
言葉を返さず、シュウは立ち上がって戸棚へ向かう。
シュウの履いている薄い生地を重ねたロングスカートの裾が足首のあたりで揺れるのが綺麗で、ナエはそれを眺めていた。
やがてシュウは大きな瓶を抱えて戻ってきて、ナエが寄ってくるのを待った。
円筒の形をした瓶の蓋は傾いたまま締められていて、表面はどこもべたべたで底の外面には埃や髪の毛がくっついてしまっている。
瓶の中身は琥珀色の液体で、シュウはそこに素手をつっこんで指にからめた。
外は夕暮れ時。
テーブルの上に散らばるのは領収書や明細のたぐい。紙幣と硬貨が無造作に転がっている。母が何の仕事をしていたのか知らないままだった。
シュウは長い髪が指先の蜂蜜にからまるのも気にせずに、それをナエの口元へ運んだ。少し窮屈なワンピースを着た小さなナエが嬉しそうにそれを舐める。
甘くていつまでもその味の残る蜂蜜が、シュウの指から貰うそれが、幼いナエの何よりの幸いだった。
今になってさえも羨ましく思い出す。
触れ合うのはほんの瞬間。
シュウの指先とナエの舌だけが、互いが互いに触れるものだった。シュウの腕一本分の距離が二人の一番近い距離だった。
ナエはなぜかそうしているときのシュウの表情を覚えていない。
もともと見たことがなかったのかもしれない。ただ与えられることが嬉しくて、受け取るのに夢中だった。
指を咥えられることに不快感はないのか、シュウは淡々と蜂蜜を小さな口へ供給していく。
シュウの長い髪の一本がつうっとナエの唇の奥に飲まれていく。ナエはそれを指で引き抜いて、シュウのもとの髪束へ返した。そしてまた雛鳥のように口を開けてシュウからの給餌を待つ。
たとえ同じ手が頭を撫でてくれなくても、この手を引いてくれなくても、口に含む温度はとても優しくて、蜂蜜の味は甘くて、繋がった瞬間深い安堵に包まれる。
ナエにとってそれは一番満ち足りて、シュウを愛しく頼もしく思う瞬間だった。
もしもどこかの偉い人や賢い人がやってきて色んな説明や論理を用いて「それはおかしい」と否定しても、ナエにとっては何よりも真実で、何よりも確かな、シュウへの気持ちだった。
ナエはシュウが好きだ。
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