第12話 揺籃
自己嫌悪の溜め息を何度漏らしたか分からない。
何度アパートに立ち寄ろうと思ったか。
その中がどうなっているか、知りたくてならなかった。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。毛布を掛けて寝ているだろうか。食器を割れたまま放置していないだろうか、そうして怪我を負ったりしないだろうか。
正直言って心配しすぎだ。自覚はある。
アパート・ビリジアンの褪せた緑色の外壁を横目に家へ向かいながら足はなかなか進まない。
後悔の念は日に日に増すばかりだった。
行動の軽率さを恥じる。衝動を抑えられない幼稚なところも、感情的に動いてしまう拙さも。未熟で大人になれない――。
ヨウはこうしてまた自己嫌悪をため息にして少しでも体の外へ追い出そうとする。
不意に首に手を当ててしまう。
数日前からの癖だ。
傷跡は残っていないが、痛みや感触がいまだ鮮やかに蘇る。歯の、その凹凸や、触れた皮膚の温度、拳で殴るより大きなダメージを与えると判断した少女の形振り構わない抵抗。
それだけ必死に母を守ろうとしたのだ。
一度与えた不信感を払拭するには簡単なことでは叶わないだろう。
ヨウはナエを裏切った。
もしかしたら少なからずあったかもしれない信頼を、それも最悪の形で。
嘆息して首から手を離す。
アパート・ビリジアンの壁に背をもたれた。
鞄から封筒を取り出す。
中身は古いカルテで、患者のデータはここ七年更新されていない。
最後の記録は七年前、低体温睡眠に備えた検査が最後になっている。
患者の名は
写真の彼女の姿は記されている年齢の半分ほどに見える。
度重なる
ナエの顔を見なくなってから一週間。
ヨウはずっとキリヤ・シュウの身辺を探っていた。
勤務している病院内のカルテを勝手に漁ってコピーを取った。
バレたらどんな処分が待っているかは想像したくない。
何をしているのだろう。ヨウは頭を抱える。
他人の母親を否定して何がしたいのだろう。
答えは決まっている。
それなのに嫌悪感に取り巻かれて苦しくなる。
例えばあの時、誰かがセナ・キョウを否定しても、ヨウは意地を張って母親を擁護しただろう。ナエだって同じことだ。
やればやるほど追い詰める。
他人が否定すれば否定するほど、子だけはより強く母親に執着する。
ヨウは書類を封筒に納めて鞄へ戻した。
小細工なしで謝ろうと思った。
もっと穏便な解決法があるはずだった。
勢いだけで殺人をしなくてよかったと、今冷静になって思う。
もしも成功していたらと考えると腹の辺りがきゅっと縮むような感覚があった。
錯覚で噛まれた首が痛む。
ヨウはドアを前にし、ノックのために拳まで上げ、でも次の動作に進むことができなかった。戸を叩いて、名乗って、ドアが開くのを待てばいい。
三日前はアパートの前で立ち止まるのがやっとだった。
二日前にドアの前まで来て、昨日はノックの寸前までいった。
だから今日はできるはずだった。ヨウは深呼吸をする。
謝るだけ。話もしないで良いから。
無事な顔を見られるだけでも安心する。だから、会いたい。
固く握った拳で、慎重にドアを叩いた。
控えめだがよく響く音がした。
ヨウは心臓の鼓動が急ぎだすのを感じる。
汗が吹き出て暑いのに背筋のあたりが寒かった。
「ナエ、いる?」
声は震えた。だが届かない声量ではないはずだ。
ヨウは黙って返事を待つ。
耳を済ませて立ち尽くす。物音一つ、返ってこなかった。
ため息をひとつ。それは少しの安堵を含んでいる。
それでも少し離れ難くて、ヨウは何気なくドアノブを回した。
手ごたえがないことに驚く。
そっと引くとドアは外側へ開いた。
施錠がされていない無用心さを心配しながら部屋へ立ち入る。
「……ナエ?」
そっと呼びかけた。
その時既に予感がして、部屋で回り続ける換気扇の音が通路までやけに大きく聞こえて、足は中々進まない。
ヨウは静かに歩く。
時間が停滞しているような空気を壊さないように、無意識に存在を潜めた。忍び寄るなんて悪趣味だが、ヨウは慎重にナエの部屋の戸を開けた。
換気扇の音がクリアになる。部屋は暗い。
「ナエ? 居る?」
問う声に、身じろぐ毛布の音が応えた。
居た。
胸の中を自分でも判らない感情が突き抜ける。
安堵や、不安や、恐怖や、喜び。次いで疑念。
どうしてナエはベッドの隅に蹲っているのだろう。どうして毛布を全身に被ってじっとしているのだろう。表情は見えない。体を横にして、ぎゅっと硬く縮めている。
起きているのか眠っているのか一目には判らない。
「ナエ、どうかしたの」
ベッドの八割の空間を無駄にして、壁に接する場所からほんの僅かな面積だけが自分の居場所だとでも言うような頑なな気配があった。
動いてはいけないと自分に戒めているような、あるいは、動けば咎められると何かに怯えるように。
怯え。
はっきりと判る。二年前のあの日が思い起こされる。
今、ナエは、何かに酷く怯えている。
ヨウはそっと少女を覆う毛布の一部を捲った。
触れた瞬間、向こうでびくんと震えるのが判った。
思わず手を離してしまいそうになりながらも、毛布を開いてナエの顔を見つける。
謝らなくてはという思いはナエの顔を見た途端忘れた。
憔悴しきった顔をしていた。
血の気の失せた唇は固く一文字に結ばれ、目の下におおきく隈が滲んでいる。
瞳は開いているのにうつろでヨウのほうを見ない。青白い顔。死人のように覇気がない。シュウのほうがよっぽど健康的な顔をしていた。
ヨウはナエの肩を支えて半身を起こした。
力が入らないのかナエの頭が僅かに仰向けになる。
視線が重ならない。もどかしい気持ちで呼びかけた。
「ナエ。どうした? いつからこうしてる? シュウは……」
最後の言葉に反応した。
「シュウは」
掠れた声でナエが反復する。
「シュウは……っ」
言葉を詰まらせて唇が歪む。泣くのを我慢しているような表情になって、その顔を俯かせて両手で不器用に覆って隠した。
「何かあったのか?」
「ぼく、シュウを」
「何?」
「……」
声が聞き取れない。口の中で消えてしまう。
ヨウは耳をナエの口元に近づける。
ごめんなさい、と聞こえた。
その呟きの不吉さに心臓が冷えた。
ヨウはナエに毛布を掛けなおして二階へ向かう。繭の部屋はいつもの通り控えめな駆動音が支配していて一目に変わりはない。繭の許まで来て急に怖くなる。
安眠の揺りかごが変質してしまったのだろうか。
これは既に死を抱く棺なのだろうか。
触れれば判る。
恐怖心がヨウの体を重くした。
殺そうとまで思ったのに、いざ前にして死体を見るのは嫌だと思う。
腕を上げる動作に苦労した。
触れるのは一瞬で、開いた窓の向こうに最後に見たときと変わらないシュウの姿を見つける。
途端に緊張が解けて脱力した。
計器類を見るとバイタルサインは正常に送られている。
とすれば考えられる事は一つ。
目には見えない場所で何か起きたのだ。
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