第18話 海辺

 てっきり今日も、ナエの姿があると思っていた。

 ヨウは、誰もいないシャッター前を見て少し拍子抜けした。

 いや、もしかしたらそれはナエがある程度立ち直ったということなのかもしれない。そうだとしたら少し安心だ。

 少し迷って、でも確かめたくて、ヨウはナエのアパートへ向かった。

 時刻はもう深夜を示していて、恐らく訪ねても反応はないだろうとは思う。

 それならそれで気が済むから、とりあえず夜道を歩いていた。

 その道行きで偶然、目当ての姿を見つけた。

 お互い顔を見合わせて「あ」と呟きそうな表情をしていた。

「驚いた。今、そっちに行こうとしてた」

「ぼくも同じ」

 どちらともなく、照れたように微笑む。

 こんな時間に偶然互いの家に行こうとしていた、妙な巡り会わせがくすぐったいような、かゆいような気持ちにさせた。

「あのね、ヨウ。もし駄目なら、それでも構わないんだけど」

 そう前置きしてナエは言った。

「今から海、行かない?」

 


 夜間運行列車があるのを知ったのだと言う。

 切符を買って、ほとんど乗客のない列車の、誰も居ない車両のボックス席に向かい合う。窓が夜の景色をむこうにして鏡のように車内を映していた。

 一番近くの海まで三時間程。

 眠っていればあっという間だ。

 ヨウは、いつもと違った状況に到底眠れるような気持ちにはなれなかった。

 夜行列車は寝台付きではないから、ぐっすり快眠というわけにはいかない。

 その分値段は幾分安い。窓の外を見ても景色なんて分からない。

 車内の映りこみとその向こうには夜の色だけで、面白いものは何もない。

「どうして、急に、海?」

「この前、言ってたでしょ? 海行こうって」

「うん、そうだけど」

「なんか、遠くって、行ったことないなって思ったから」

「え?」

「ぼく、行ったことないんだ。旅行とか。遠い場所に」

「それなら、海じゃなくても色々あるのに」

「海、やだ?」

 問われて、慌ててかぶりを振った。

「ううん、そういう意味じゃないんだ。遠い場所なら色々あるし、山でも森でも」

「海って、遠くの象徴、みたいな気がして」

「遠くの象徴?」

「ぼくの生まれ育った町には海がないから、そう思うのかも。もっとも、山も森もないけど、なんでかな。ヨウが言うからかな」

「俺?」

「ヨウの故郷は海の町、でしょ?」

 途端に、思い出す。

 白い壁の多かった、でこぼこの、坂道の多い迷路みたいなきれいな町。

「それできっと刷り込まれたんだ」

「そっか」

 ぽつり、ぽつりと、言葉を交わした。

 それは広い森で木の実拾いでもしているような調子だった。

 時折長い沈黙を挟む。しかし居心地の悪いものではない。

 お互い眠りにつく様子はなかった。

 ナエは避けるようにシュウの名を口にせずにいた。

 だからヨウも触れずに居る。

 窓の外の様子がようやく見えるようになった。

 薄青に染まった、見たこともない景色を眺めるナエの横顔を、ヨウは見た。

 淡い朝の光を受けて輪郭がぼやけている。

 少し上向きの上唇と、ふっくらした下唇が、今はくっついている。

 青い瞳が金の光を反射する。

 列車の振動で前髪が細かく揺れていた。ふいに、その横顔が正面を向く。

「ねえ」

 迷子みたいだね。と、微笑みながら囁いた。

「ぼくも、きっと、きみも」

「――え?」

「みちしるべを見失って、引き返すことも、進むことも出来ない、行き止まりで」

「……」

「地図がなくたって歩けるのに、知らない場所は怖くって」

「……ナエ」

「ヨウ。ぼくたち似てるよ。そう言ったら怒る? 一緒にするなって腹が立つ?」

 その通りだと、ヨウは思う。似ていた。対極に思えるそれは、たぶん対称なのだ。

 鏡写しになったみたいに、ちぐはぐの、同じ形をしている。

「割り切れたらいいのにね。もう要らないよって言えればいいのに。でも、欲しくて欲しくて、手に入らなかったのにまだほしくて、一度でいいから触りたいものを、まだ一度も触れてないものを、『もう要らない』って言うのは難しいね」

 話を聞いてほしかっただけなのだと感じた。

 だから返事をしなかった。

 何について言っているのか、曖昧にしか分からない。

 それでも少しは分かる気がした。

 分かったように思いたかった。

「もう要らないなんて、言う必要ないよ。だってまだ、二度と触れなくなったわけじゃない」

 だってまだ、眠っているだけだから。

 これからまだ逢えるのだから。そう伝えたくてヨウは言う。

「うん……」

 納得ではなく、相槌のような声だった。

 それでも沈んだ色はない。

 変わろうとしている、今までの考えを変えようとしている。



 ほどなくして目的の駅に着いた。

 控えめな朝の光が差し込んで、まだ初夏に至らない冷たいとも言える風が吹く。

 古びた駅は海のすぐそばにあった。砂浜は朝日を受けて白く、海は打ち寄せる波がはじけ、空は黄金色に染まっている。

 懐かしい匂いと風景に、ここが故郷ではないにしても、ヨウは眉根を寄せた。

 ナエは驚きと感激を隠せないように言葉をなくして、海を見つめる顔には笑みが浮かぶ。

 波の音。遠くから響いてくるような、引力の音。

 しばらく無言でいた。

 ナエは目を閉じて、体中で音を聴いているように見えた。

 それから目を開けて、ずっと遠くまで見渡すように、じっと見据えた。

 地平線があった。

 ナエが見たかった『建物の全くない景色』が眼前に広がっている。

 深く息を吐いて、吸い込む。

 胸いっぱいに、嗅いだことのない新しい空気を取り入れる。

「海。すごい」

 感想は一言、それだけ。

 言葉以上に表情が、体中が、驚きを、喜びを表していた。

 砂浜を歩いて、足跡が二人分、スタンプみたいに残る。

 靴を脱いで裸足になって、冷たい波に肌をさらした。

「ヨウは、こんなのの近くに住んでたの。すごい」

「今、ちょっと羨ましい。俺、生まれたときから当たり前だったから、そういうふうに感動できないのが残念」

「そんなのずるいよ。今までずっと近くにあったんだから」

「ずるいって。何それ」

 二人は笑いあって、ふとヨウは気が付いた。

 ナエのこんな笑顔を見たのはこれが初めてかもしれない。

 大きく、屈託なく、笑う。

 眩しそうに目を細めて、風を受ける。服の裾がはためいて、髪がなびく。

 潮の匂い。波は休みなく打ち寄せて、砂はそれに翻弄される。

 朝の五時、早くも散歩する老人の姿もあった。

 二人並んで歩く姿を、どう解釈したのか微笑ましそうに眺めていった。

 ナエはその視線に気付かずに、ずっと海のほうを、その向こうで広がる地平線を見つめる。

 しばらくそうして居た。身体いっぱいに潮風を感じて、目に焼き付けるように水面を眺めて、やがて駅へ戻った。

 移動時間に比べて短すぎる滞在時間だが、ナエは気が済んだようだった。

 電車を待つホームのベンチではまだ潮の香りを感じられる。

 ナエがふいに口を開いた。

「ナエ――苗、ってぼくの名前」

 言って、ヨウを顧みる。

「どうしてこの名前、付けたんだろう。ぼく、シュウに名前を呼ばれたこと、あんまりなかった」

「ナエ……」

 呟いて、思案してみた。

 だけどヨウには名づけた気持ちは分からない。

「もっと、呼んでほしかったな」

 名前を呼んでほしかった。

 話を聞いてほしかった。目を見て微笑んでほしかった。

 安心させてほしかった。

 シュウの話が聞きたかった。一緒に食事をしたかった。

 おやすみなさいとおはようを、行ってきますとただいまを、お互いに言えればよかった。眠れないときは心配して、悪いことしたときは叱って、嬉しいことがあったら喜んで。

「――たった二人の家族。一緒に生きてほしかった」

 素直な願いが口を衝いた。

「そのまま、全部、シュウに言えばいいよ」

「怖い。勝手にそばに居ただけだ。怒られるかも。嫌われるかも。今度こそ手の届かない遠くへ行ってしまうかも。そうなったらどうしよう」

 言葉が全部、ヨウにも当てはまることに思えて、それはナエに対することで、咄嗟に何も言えなくなった。

 沈黙を挟んで、一つ問う。

「……それでも、シュウが好き?」

 ナエの瞳がまっすぐで、ヨウはなぜか苦しく思った。

 ナエの答えは多分、聞かなくても分かっていた。

 ヨウにだって言えたことだ。

「うん。好き。シュウが好き」

 それから程なく電車が着いて、二人は海の街を去る。

 電車の中、行きとは違い、どちらともなく寝入っていた。

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