第10話 理由

 部屋に帰らずナエはそのまま道を歩いていった。

 橋を渡ってジュカン区へ至り、バロック調の病院の前を横切って、さらに向こうへ。行き止まりに大きな温室が見える。私的な施設とは思えないほど開放的にデザインされた建物群のひとつを目指していく。

 疲れていて早く座りたかった。サイガは何か温かい飲み物をくれるだろう。

 ヨウの夢の影響で体が自分のものじゃないみたいだった。

 ドアベルを鳴らして訪問をしらせる。施設の中で独立した建物はサイガだけが常駐していて、今日もすぐに招き入れてくれた。

 色が少ない室内だ。白とグレーと時折水色。

 一番派手な色はサイガのネクタイのオリーブグリーンだった。

「いらっしゃい。どうかしてるね?」

「うん……どうかしてる」

 言い回しがおかしくてナエは笑う。

「検査は明日にしておくかい?」

「ううん、いい。今日やる」

「準備をするから少し待って。飲み物を用意しよう。ソファに座って。一体どうしたんだい。疲れているよ。少し眠るかい?」

「起きたばっかり。眠くないよ」

「随分早起きのようだね」

「夢見が悪くて」

「へぇ、それは災難」

 サイガは平然として言った。台所のポットから湯をそそいでココアを作る。

 ソファに腰掛けたナエへ差し出して、奥の部屋へと姿を消す。助手を一人呼ぶ。助手は女性で、彼女がナエの測定を受け持つのだ。

 準備が整ってナエは部屋を移動する。

 診察室の体を成す部屋で出来る限りの薄着になる。

「失礼します」

 助手はそう断って機械的に身長と体重と各部位を測定して、瞼を広げて眼球を見て、心音を聴いて、ライトで口内を照らして頬の内側を少し削って検査に回す。

 ベッドに横になって頭のあちこちに吸盤みたいなものをつける。ナエはいつもこの間抜けな格好だけは人に見られたくないなと思う。管に繋がれるとシュウを思い出す。ナエは目を閉じる。シュウのことを考えて少しほっとする。

 助手が役目を終えて部屋を去るとサイガとナエの二人きりになった。ナエは管に繋がれながら、その先の機械の横で書き物をしているサイガに呼びかける。

「ねぇ」

「はい?」

「薬って、何の薬?」

「言えない契約だったよ」

「本当に道楽なんかでこんなことしてるの? 施設も立派なのに」

「気にしても得にはならないよ。ほら静かに」

 静かにすると機械の静かな駆動音が響く。ペンの走る音。時計の針の進む音。

 しばらくして、ぶちぶちと管が剥がされた。

 最後に一本注射をしたら検査は終わりだ。

 ナエの白くて細い腕に針は抵抗なくもぐっていって、透明な薬品がするりと流れていった。小さな絆創膏を貼り付けて、二時間足らずの拘束が解かれる。

「はいお疲れ様。飴をあげよう」

「ありがとう。飴より欲しいものがあるんだけど」

「忘れちゃいないさ。さあどうぞ。受け取り印は? ああ、よろしい。お疲れ様。次の分、よろしく頼むよ」

 キャンディの包みと封筒が二つ。

 一つは薄く、もう一つは厚みがあるが軽い。給料と薬。

 受け取るときに少し腕が躊躇した。サイガは気付いただろうか。

 受け取ったもの全てをパーカーのポケットに詰め込んで、ナエは言った。

「サイガ。聞いて。答えなくていいから」

「うん?」

「他人の夢を一緒に見ることって、できると思う?」

 サイガは答えず、続きを促すようにナエを見た。

「ぼくにはずっと前からそれが本当に出来る気がするんだ。ねえサイガ、なんのためにこの薬を作ってるの? 本来はどういう機能をするものなの、これは」

「答える必要はないのだけどね」

 嘆息混じりに彼は応える。

「まだ目的の半分くらい、でもようやく半分。といったところなんだ。道楽なのか? その問いの答えは半分是だが半分は否だ。それ以上をきみは知らなくていい、この仕事がまだ必要ならね」

 サイガは施設の門までナエを送った。

 ありがとう、と礼を言って、ナエは建物を出る。

 貰った飴のつつみを開けて、球体のそれを口に含む。

 甘いのは最初だけで、噛み砕くと口いっぱいに味が広がる。

 ちょっとすっぱいレモン味だった。

 少し気持ちが晴れた気がした。ほんとうにほんの少しだけ。



 ヨウがアパート・ビリジアンに着くと部屋にナエの姿はなかった。

 もう出かけたのだろう。そのまま二階へ向かう。

 そこにシュウの繭がある。

 ヨウは繭を前にして床に腰を下ろした。

 繭の白い表面が接触を探知して窓を開く。 

 その向こうに穏やかな寝顔が現れる。

 まるで少女のような体は非現実的なほど整っていて、それが益々シュウを人間のように思わせない。繭の寝台も含めて人形師の作品のようだった。

「どうしてあの子を産んだんだ。一人ぼっちにするためか」

 ヨウは囁いて、返事を待った。

 いくら待っても答えは無い。

 壁に背をもたれて根気よく繭に向かい合った。返事などあるはずないのに。

 愛さないならどうして生むのだろう。

 愛しているならどうして。

 ヨウは思う。これは自己投影だろうか。

 ナエにかつての自分の姿を重ねていないとは言い切れない。

 でも決定的に二人は違う。

 ナエは愛されず、ヨウは愛されすぎた。

 赤いリボンがぐるぐる巻きついた腕の先、決して離そうとしなかった母の指。

『これは正しいことなの』

 毅然としてそう言う母を誇らしいと思ったことは何度もある。

 瀬名杏セナ・キョウは正しい人だった。

『身の回りは綺麗にしなさい。そうすればあなた自身の心も綺麗で居られるから』

 母の教えのせいで乱雑なところを見るとすぐ整頓したがる癖がついた。

 父はなかったが、妹と三人でうまく暮らしていた。

 キョウは面倒見がよくて働き者で記念日ごとにお祝いの準備をする。

 誕生日とか、学校で良い成績をとったとか、妹の絵が入賞したとか、他愛ない喜びを三人で分かち合う。

 スズメを飼いたいと言ったとき、ヨウを諭したのも母だった。

『その子はドロシーの獲物。ドロシーから横取りしてはいけないし、傷ついていても助けてあげられない。ヨウは世界中の死に掛けのスズメぜんぶを助けるつもり?』

 ドロシーに返すか放すかしなさい。それが正しいことなのよ。あなたのものにしてはダメ。ヨウはスズメを空へ放した。それが正しいことだったから。

 黒い髪を纏めてキョウは仕事へ行く。

 二人の子供を養うために彼女は忙しかった。

 歳より少し老けて見えたが母の顔を美しいと思った。

 ヨウはキョウが好きだった。

 だからあのとき病院で目覚めて、何もかも信じられない気持ちでいた。

 今こうして自分が生きていることも。

 キョウが死を選んだことも。

 子を巻き添えにしたことも。

 眠っている間に見た悪夢としか思えなかった。そうであれば良いと思った。

 


 海へ行こう、と母は言った。

「突然、どうしたの?」

芽衣メイに見せてあげたいの。この前素敵な絵をいろんな人に褒められたから、もっと描きたくなっちゃったみたい」

「でももうこんな時間だよ?」

「夕食は外で取りましょう。ちょっと贅沢、ね」

「ほんと! 準備するからちょっと待って」

 母は黒い外套と茶色の革の鞄を持っていた。どこへ行くにもきれいに身支度する人で、家の中でもだらしない格好をしたことがない。

 ヨウはコートを取ってきて、慌てて着込んでもう準備を済ませた妹の後に続く。母の車に乗って、ご機嫌なメイの相手をするのが海まで大変だった。

 海、海、魚、と歌う。メイはこの前画用紙にクレヨンを殴りつけたような絵を大人に褒められて(おおらかだとか、大胆だとか、子供らしくてとてもいい、とか)すっかり絵描きになった気分なのだ。

「メイ、車の中では静かに座って。危ないでしょ」

「はーい」

 母の言葉に子供たちは素直に従った。

 二人とも母が居れば満ち足りて生きていけると知っていた。母は強大な庇護者で、その許で育つ自分達は幸せだと、理解でもなく実感していた。

 車は郊外へ出て行く。住宅街の明かりは消えて、山肌の陰影が夜に浮かび上がる道を一台きりで走っていた。波の音が聞こえる。砂浜に向かっていないことをヨウは不思議に思ったが、母に何か考えがあってのことだろうと不安には思わない。

 それよりも眠たくて、もうすぐ海に着くというのにヨウは眠ってしまう。

 メイはとっくにくたびれて寝息を立てていた。

 後部座席で寄り添いあって眠る。妹と触れ合ったのは多分これが最後だった。

 目が覚めると海の中で、次に目が覚めると病院に居た。

 決定的な瞬間をヨウは見ていない。

 毎夜のように夢に見ることになる光景は、ゆっくりと時間をかけてヨウが作り上げた妄想だ。それなのにまるで当時体験したことのように錯覚すら抱く。

 遺体は見つかっていないと聞かされた。

 望みは捨てないで。

 何を望めというのだろう。

 その後たくさんの話を母の同僚たちから聞かされた。

 そのほとんどを覚えていない。

 母は正しい人で、その正しさが損なわれることは、彼女にとって絶望なのだ。

 彼女の正しさは、強大な庇護を奪われる子供たちを可哀想に思って、一緒に連れて行く道を選んだ。

 愛しているから連れて行く。置き去りなんて可哀想なことはしない。

 そんな母の正しさを振り切ってヨウは生き延びた。生きながらえてしまった。

 だからずっと考えていた。

 助かった命はなんのためなのか。

 ナエを見つけて直感した。多分、この子に出会うためだ。

 この子をこの子の母から救うためだ。

 ヨウの正しさはそう考えた。

 ヨウは繭へ近づいていって、そっと蓋を開けた。繭の中へ腕を伸ばす。中の空気はひんやりとしている。何も知らずにシュウは眠り続けている。

 ヨウの指は彼女の華奢な首筋に触れて、やがて両手がそれを包み込んだ。仰向けの首筋の真ん中に親指と親指を並べて、他の指は首の後ろへ回す。ヨウは息を吸って、どくどくと早まる心臓を沈めようと試みる。無理だ。

 頭に血が上って、視界が狭まって、呼吸は苦しくなる。

 体が必死に自分の動きを止めたがって抵抗しているみたいだ。

 だけどこれを正しいと思いたかった。

 ヨウは腕に力を込めようとして、

 その瞬間部屋のドアが開いた。



 ナエは見た。

 シュウが男に襲われている。

 男の腕が繭の中へ伸び、蓋の開いた繭の中でシュウは――

「シュウっ!」

 思わず叫んで飛び出した。繭と男の間に体ごと突っ込んでシュウとの接触を断つ。

 ひるんだ男に闇雲に殴りかかって、飛びついて床に倒す。

 体格差は不意打ちで互角にできるのだ。男の倒れた衝撃に部屋が揺れたような錯覚。頭に血が上って視界が狭い中、ナエは叫ぶ。

「お前! シュウに触るなっ!」

 男の抵抗はなく、その機会をナエは逃さない。

 体の上へ覆い被さってそいつの首筋に獣のように噛み付く。

 拳よりこっちのほうが効果的だと知っていた。噛み切ってやるつもりだった。

 男が痛みにうめく。許してやるもんか。

 だけどちょっと待って、今の声聞き覚えがある。でもそんなことあるはずない。

 ナエは一度顔を上げて男を見た。

「ヨウ……?」

 信じられない思いで呼ぶ。引っつかんだ襟元を手放す。

 ヨウはナエに反抗する気が少しもないようだった。

 唇を結んで、歯型のついた首もそのままに、呆然としている。

 ナエは慌てて立ち上がった。組み合ったときに落とした薬や鍵を拾い集める。

「ぼくもしかして勘違いした? ヨウここで何してたの?」

 努めて平静に問いかけたつもりで、声は隠しようもなく震えていた。

 体まで震えてきて、ナエは立っていられなくなる。壁に肩を預けて、ヨウが立ち上がるのを見守る。首にくっきり歯のかたちが、赤紫に変色して残っていた。シャツの襟が掴んだせいでよれている。ヨウは俯いていて表情を見せない。

「ここで何してたの……」

 怒鳴ろうとしたのに息が上手く吸えなくて大した音にもならなかった。

 囁き程度の声に、答える声もまた小さかった。

「……殺そうと思った」

「嘘!」

「嘘じゃない。分かんないか? シュウは何年もかけて自殺しようとしてるんだ。さっさと終わりにしてやる。不毛だよ、こんなことおしまいにしよう。ナエ。その仕事ももう辞めだ、きみが壊れる」

「そんなのヨウが決めることじゃない。出てってよもう二度と来ないで。鍵置いてって。どうかしてるよ、きみのほうがどうかしてるんだよ。ぼくのことはぼくがやる。きみの世話は要らないよ。だから行って」

「ナエ! 何もシュウのために苦労することなんか」

「出てけ! 何も苦労なんかしてない。シュウがぼくの傍に居てくれるんだ。辛いこと何もない。これ以上もう喋らない。さあ行って」

 ナエは唇を閉ざしてヨウを見上げた。

 ヨウは苦いものを味わったように表情を歪めて、ポケットに手を入れる。金属音と一緒に鍵を取り出して、そっと床に置いた。そのまま顔を上げずに、ナエの横を素通りして部屋を出る。

 背後でドアの閉まる音を聞いて、ナエはシュウの繭へ駆け寄った。

 まず静かにじっと覗きこんでシュウの無事を確認する。

 ……大丈夫。なんともない。

 深く、本当に深く安堵した。

 途端に体中の力が抜けて眩暈を感じるが、気を確かに持った。

 崩された寝相を元通りに整えてやり、首に跡が残ってないか調べる。

 綺麗なままの無傷だった。未遂だったのだ。ほうと息を吐く。

 繭の蓋をしっかりと閉めて、中の空気を清浄化するよう装置に指示する。

 シュウは何があったかも気付かず眠り続けている。

「シュウ、ごめんね、ごめんね……」

 繭にすがり付いて、悲しい気持ちで繰り返す。

 悔しさと、心細さに襲われる。

 ヨウに対する憤りと、彼と理解し合えない悲しさと、きっと一人になってしまった不安と――でも、それで良い。

 シュウはここに居る。

「ぼくがシュウを助けてあげる。ぼくだけがシュウを助けてあげられる。待ってて、シュウ。待っててね」

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