第9話 悪夢

 はじめに何か強烈な、嗅いだことのない香りを感じた。それについて深く考える余裕もなく衝撃に襲われた。

 壁に叩きつけられたのだと思った次の瞬間ぶつかった壁が体を飲み込んだ。固体のように硬い水に呑まれた。呼吸ができないパニックとどちらが天地かの区別がつかない不安から逃れようともがくと体に抵抗を感じる。

 両の手首がそれぞれ赤いリボンでぐるぐる巻きにされ何かと結ばれていた。怖気を感じて悲鳴を上げようと開いた口にさらに水が飛び込んで、酸素を求める体がまた勝手に口を開かせる。

 何も出来なかった。体の自由がきかない。飲み込まれていく。

 質量のある闇がナエを引っ張っている。

 かすむ意識で頭を上げた。

 見上げた上がきらきら光っていて、それが水面なのだと思った。

 ナエは腕をふりほどこうともがく。その腕に何かがひっついて揺らいだ。

 白い。温かい。力強い。ナエを縛り付けているのは赤いリボンより何よりもその白い腕の先だった。五本の指がナエの指の間にがっちりと嵌まり込んで放さない。骨のかたちがくっきり浮かぶほどの執念で捉えていた。リボンが解けても指は離れないだろう。

 何かが視界の中をただよう。生き物のように揺らぐのは黒くて細い紐状のものの群れで、その向かう先に白い丸があった。髪の毛と顔。このときもうナエに思考する力はほとんど残っていなくて、ただ苦しいのと、息がしたいのとでもうわけがわからなくなっていた。

 必死だった。

 ナエはどこにそんな力が残っていたのか、闇雲に泳いで水面を目指した。錘のような白い体がナエの手を引きちぎるほどの負担になる。引きちぎることができればそれでいい、指でも腕でも肩でもそれなら半身すらも、この人にあげようと思った。だから離して。

 苦しいから、息がしたいから、死にたくないから、だからお願い。

 ――お願いだから放してお母さんママ

 揺らぐ黒髪のベールに覆われた彼女の真白い顔に笑みが描かれていた。

 幸せそうな微笑が「これは正しいことなのよ」と語っていた。

 やがて赤いリボンが自然にほどけたが、リボンの形がくっきりと赤く残っていて、まだ縛られているみたいだった。そうして尚たった五本のか細い指がしっかりとナエの手を繋いでいる。

 ナエを引きずり込もうとする母親の体の向こうに力尽きた小さな体が揺らいでいる。健康そうに日焼けした肌の小さな女の子が開いた口を塞ぐこともなく力尽きていた。それを見た途端に激しい怒りと、憎しみと、塞ぎようのない悲しみの穴が体中に空いた。

 痛くて痛くて、ナエは叫んだ。声は音にならずごぼごぼと口から気泡が昇る。

 そうやってなけなしの酸素が体から出て行って、やがて何も感じなくなった。



 息苦しくて目が覚めた。酸素を求めて口が短い開閉を繰り返す。

 どうやって息をしていたのかわからなくてしばらく苦しんだ。やっと酸素を充分に取り入れてようやく頭がはっきりしてくる。

 腕を失った錯覚に恐る恐る左手を触るとちゃんと感覚があった。

 抱き寄せて自分の腕を撫でる。

 なんともなっていない。当たり前だ。安堵して、意図して呼吸を深くした。

 心臓が大げさに音を立てている。寝返りを打って体をぎゅっと小さくした。

 そうしないと耐えられなかった。

 無防備に体を広げていると痛みをまともに感じそうだった。

 ぷつぷつと一瞬で全身に広がった穴。

 体を縮めてなるべく穴を塞いでいなければ――そう思ってナエは、自分の体が痛くないことに気付いた。そしてすぐ頭の上に誰かの呼吸があるのを感じた。

 ヨウだ。

 ヨウの夢を見ていた。

 ナエの言った通りになったのに、勝ち誇っていいはずなのに。

 罪悪感でいっぱいだった。

 ナエは体をうつぶせにして、ベッドの上に肘をついて上半身だけ少し起こして、ヨウの寝顔を覗き込む。唇を一文字に結んで彼は眠っている。額に汗が浮かんでいる。胸の上に重ねられた左手が時折ぴくんと動く。

 ナエはそこへそっと自分の手を重ねて、もう片手は彼の額の汗を拭った。

「……あ」

 目を覚ましたヨウが真上にナエを見つけて驚く。

 一瞬混乱した顔をして、すぐに状況を把握して戸惑いがちに微笑んだ。ナエはその微笑みに息苦しくなった。ヨウが表情の変化を敏感に受け取って、静かに吐息した。

「ごめん」

「ううん。ヨウ、あれはただの悪夢だよね。たまたま見た怖い夢。そうでしょ?」

「ナエ。ごめん。ありがと」

 重ねられていたナエの手をそっと退かしてヨウは体を起こした。

 ナエも起き上がって、ヨウの左手に手を伸ばす。彼は応えてそれをゆだねた。

 両手で受け取って、ナエは検分する眼差しで手の甲を撫でた。

 指の付け根のあたりに掴まれた指の跡が残っている気がして、確かめなければ気が済まなかった。シャツの腕をまくって調べる。

 赤い帯状の跡は残っていない。ほうと息を吐いて、彼の手を解放した。

「気分、大丈夫?」

「うん、ぼくは……でも」

 言葉が出ない。ナエの言葉を待ってヨウは黙っている。沈黙が下りる。

「まだ俺は信じてないよ。ナエが見たのは俺の夢と同じじゃないかもしれない。聞かせてくれる?」

「うん……」

 ナエは目を閉じて、一度深く呼吸をした。

 まだ息苦しい気がして、喋るのが難しい。

「たくさんの、あれは……水。水に呑まれてた。川?」

「……海だ」

「海? それで、ぼくは溺れてた。体が浮かなくて、それは錘がついてるせい。赤いリボンがぐるぐる腕にまきついて、それは誰かの腕に繋がってる。指の間にこう、その人の指が重なって……離れない。そういう夢」

「それだけ?」

「ぼくを捕まえて離さないのは、黒い髪の女の人で、もう一方の手には女の子がぶら下がってた。もう息絶えた女の子がゆらゆら揺れてた。それを見て、ぼくは体中の何かが根こそぎ奪われた気分になったんだ。それで目が覚めた」

 ナエは気付かぬうちに自らの腕を抱いていた。

 まだ縛られた感覚が腕にあって、そこを何度もさすっていた。

 隣あって座っているからヨウの表情は分からない。

 いつもみたいに感情の起伏の乏しい、それでいて優しい声が「そう」と呟いた。

「ごめん。ナエ。きみの言ったこと信じるよ」

「ねえ、ヨウ、これはただの怖い夢だよね? 本当とは違う、すぐに消えちゃう、ただの夢」

 ナエは俯いた顔をあげてヨウを見た。

 ヨウは普段と変わらない様子でいる。

「そうだよ、って言ったら?」

「そのほうが良い……だってあんなに穴だらけになったら痛くて生きてられないよ」

 ヨウは立ち上がってナエの頭に手を置いた。軽く髪を梳くように撫でて、囁いた。

「ただの夢だよ。たまたま見た怖い夢。すぐに忘れる。朝食にしよう」

 ナエを残してバスルームへ向かう。

 一人ぼっちでナエは、自分の体を抱いていた。

 ぷつぷつと空いた穴の痛みがまだ体中に残っていた。

 立って歩くことができるまでもう少し時間がかかる。

 何かでこの穴を埋めなくちゃ到底自分を支えられない。崩れてしまう。

 そんな痛みとヨウはいつから一緒に居るのだろう。

 ナエはこの瞬間ばかりはシュウもシュウを殺す男のことも忘れて悲しんだ。

 ヨウの夢の同調から抜け切らないまま、自分のもののように感じていた。痛みや憎しみや怒り、体の表裏がひっくりかえりそうなほどの悲しみと、よく知っている裏切られた気持ちを膝と一緒に抱えてベッドの上でじっとしていた。



 いつも目が覚めると、現実感を取り戻すのに時間がかかる。

 でも今日は違った。

 こんなにすっきりと目覚めたのは初めてと言ってもいいほど。

 毎夜繰り返し追体験する記憶のあと、目が覚めて、本当にここに居る自分は生きているのだろうかと疑問に思う。だけど今日は目を覚まして真っ先に少女の顔が見えた。それだけでいくつもの過程が飛んだ。

 ここは海のない町で、今は一人で暮らしていて、俺はちゃんと生きている。

 指も肩もどうにもなっていない。

 腕はもう解放されている。潮の匂いは錯覚だ。この町に海はないのだから。

 洗顔を済ませて朝食の準備をしていると背後から呼びかけられた。冷蔵庫の中身から視線を外してそちらを見る。ナエがぼうっと立っていた。少し血の気の失せた顔をしている。

「ぼく……、帰る」

「一人で平気?」

 小さく頷く。とても平気に見えなかった。

「もう少し、ゆっくりしていけば。飯くらい食べて行っても」

「用事、あるの。サイガのとこ行って……お給料と検査」

 サイガと名乗る人物がナエの仕事の窓口だった。

 給料は二週間ごとに支払われ、その都度次の二週間分の薬が手渡される。

 検査は二ヶ月に一回で、今日がその日らしい。ヨウは苦い思いで問いかけた。

「……まだ続ける?」

 今日、給料を貰って、そこで打ち切りにすれば良い。

 ヨウは夢をただの夢だと言い切れない重さを知っている。

 毎晩精神が死に続ける苦痛も知っているつもりだ。

 だからこそシュウが望んで今の環境にいることが理解できないし、ナエが必要もないのに毎晩悪夢を見続けることが心配だった。

 体は無事でも心が削れて行く。いつかなくなってしまうとも限らない。

 実際、この二年間で少女はずいぶん痩せた。

 気力も失って、ぼんやりすることが多くなって、外出も減った。

 ヨウは怖かった。ナエがかたちのない悪夢に少しずつ飲み込まれて、いつか引きずり込まれて消えてしまう予感があった。

 まるで海の底へ沈んでいくように、少女は夢に、眠りに沈んでいく。

 希う気持ちでヨウはナエを見た。

 躊躇いがちに、でも確かに、ナエは頷いた。

「どうして」

「だって。シュウ……」

「シュウに起きてもらえば、それで済む話だろう? 経済的にも、繭を維持するよりはそのほうが楽だよ」

「でも、それじゃあシュウは……」

「シュウは怒らないよ」

「そうじゃなくて……いい。もう、いいよ。きみとする話じゃない。分かったでしょ? ぼくの思い込みじゃなくて、ぼくはシュウと一緒に居る。ぼくはシュウを救うことができる。現にぼくは、こうしてきみの夢もちゃんと見た。きみの望み通りにね。気は済んだ?」

「ナエ」

「じゃあ、行くから」

「他に方法があるだろ? シュウをたたき起こして、それから医者を雇ってカウンセリングすればいい。どうして、それじゃいけない?」

「やめてよぼくのママに乱暴なこと言わないで。たたき起こすなんて。それに、シュウを救うのはぼくだ。他人の手に委ねたくないよ。シュウもきっと同じ思いだよ。もういい。これ以上きみと話すことはないから。じゃあね」

 怒ったように言い残してナエは出ていった。

 ヨウは自分の言動を後悔する。

 少女の神さまに不遜な口をきいてしまった。怒るのも当然だ。

 ヨウは壁に背を預けて嘆息した。

 物言わぬ母親と、いくらそうしたって見返りがないことを知りながら身を尽くす少女のことを考えた。どうしてそこまで出来るのだろう。ヨウには不思議でならない。

 一方通行の想いで長く続くわけがない。

 眠ったままで無反応な相手に注ぎ込まれる愛が哀れで仕方ない。

 せめてどれだけナエがシュウのことを好いているのか、大切に思っているのか、シュウに教えてやりたかった。

 シュウはそれを知りもせず昏々と夢を見続ける。そのことにヨウは憤る。安らかな寝顔に怒りを感じる。

 本当なら繭の蓋を開けて髪を引っつかんで起こしてやりたいのだ。

 肩を揺さぶって瞼をこじ開けてシュウの見ぬうちに大きく育った娘の姿を見せてやりたい。傍に居ながら、抱擁の手も期待できない母親を守り続けるナエの姿を、見せてやりたい。

 どれだけ心細い思いをしたか。

 どんなに母親の存在を求めたか。

 シュウは知らない。そして知らぬまま、再びナエを置き去りにしようとしている。


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