第8話 呼吸
夜には雨は止んでいた。
ナエは荷物もなしに、鍵と一錠の薬をパーカーのポケットに入れただけの身一つでヨウの家へ来た。
ハシュ区一丁目十七号一番ハルイ眼科。
ここへ来るのは久しぶりだ。
待合室はがらんとしていて、その奥の診察室にぼんやり明かりが灯っている。
いまだ器具がまるごと放置されていて、用途のよくわからない小さなクレーンみたいな装置や、いたるところに照明器具がひっついている。壁に貼られたアナクロな視力検査表は、多分実用はされていなかっただろう、単なるシンボルだ。
視力検査表の前に立って、なんとなくナエは片目を隠して、下へ行くほど小さくなる「C」の字を追いかけた。
「右、左、下、右上、左、左下、上、右……左下、……右」
ふと視線をそらす。
「ヨウ」
片手でふさいで狭くなった視界でヨウを見た。
ナエの行動を面白がるような表情をしている。
「当たり。視力は1.0かな」
「いい加減なこと言ってる」
「うん。いらっしゃい。夕飯は?」
「まだ」
「何か作るよ」
「少しでいい」
「わかった」
ヨウは部屋着姿で白衣は着ていなかった。
適当なジーンズとシャツのチョイスはナエのラフさといい勝負だった。
「気兼ねせずくつろいで」
そう言われて、ナエは患者を待たせるために使われていただろう革張りのソファに腰掛けた。そのすぐ上にさっきまで見ていた視力検査表が張られている。
正面には診察室が広がっていて、一番奥に実際利用されていただろう視力検査のスクリーンが立っていた。壁に沿ってスコープと箱が一緒になったような器具が置かれている。実際使用しているところをうまく想像できなかった。閉鎖して久しい病院のはずだが今でも営業しているかのように整頓されて埃もない。ヨウも暇をしているのだな、とナエは思った。
診療室の隣は給湯室で、そこで料理をしているらしい。
「ねえ」
呼びかける。声は小さくて届かなかった。
向こうのシンクに水が流れ落ちる音がする。
「ねえ、覚えてる?」
声を張って、ナエは問いかけた。
「何?」
「はじめてぼくが、ここに来たとき」
「覚えてるよ」
ガスコンロで何かを熱する音を背景にヨウの声が届く。
「ぼく、きみを、
「そんなに老けて見えた?」
「ううん見てなかったから」
「ああ、それじゃあ」
しょうがないな、と納得する。
「あれ、面白かったよね」
「こっちは驚いたけど。焦ったよ」
「あのときは」
「え、何?」
じゅうう、とひときわ大きく何かの焼ける音がする。
ナエの言葉はヨウに聞こえなかっただろう。
「なんでもない」
口を閉ざして会話を打ち切った。
ソファの上に転がっていたリモコンを拾って、ナエは天井から下がる小さなテレビに向けてボタンを押した。途端に騒がしいノイズのような音声が聞こえてくる。ナエはテレビが苦手だったが今この瞬間沈黙が続くことに耐えがたくて音を求めた。
ニュースが放送されている。
どこかで政治家同士が喧嘩している。どこかの会社が倒産した。どこか遠くで大災害が起きて人がたくさん死んだ。どこかの家で女の子が死んだ。八歳の女の子が母親に殺された。そんなことを砂みたいな音声が次々に言う。
ナエはテレビを消した。
ニュースはいつも同じことしか言わない気がした。
本当に毎日時が過ぎているのか疑わしい瞬間が時々ある。
あまりにも変わりのない毎日を続けているせいだ。
「できた」
「うん」
ヨウが大皿を一つ抱えて出てきて、その上には本当に簡単な野菜と肉の炒め物が盛られていた。ヨウの料理に細やかさはないが大体美味しくできている。診察台の上に置いた一つの皿を二人がそれぞれフォークでつついた。
「泊まるの、あのとき以来だ。はじめて来たとき以来」
「そうだっけ?」
ヨウは問い返す。そういえば、そうだった気もする。
互いの家を行き来しあうことはあっても泊まることはほとんど無い。
「そうだよ。今日が二回目」
「そうか……」
怒っているだろうか、とヨウは少し不安になる。
怒らないはずがないようなことを言ったわけだけど――ナエを疑ったのは自分なのだ。ヨウは今他人の信仰する宗教を貶めているのと同じだった。
「あのさ、怒らせたよね。ごめん」
「気にしてるの? なら、最初から関わらなければいいのに」
意図してそう答えているのだろう、ナエから意地悪な言葉が返ってくる。
「でも、応じたぼくもぼくだし。いいよ。ぼくだって、きみに証明してもらえたらいいなと思う。今だって疑っちゃいないけど、でも誰かに、ぼくは本当にシュウの夢を共にしてるんだってこと分かってもらえたら、きっともっと強くなる」
「強くなる?」
「あいつをやっつけられる」
「あいつって……」
「シュウを毎晩殺す奴」
言い放ってナエはフォークを手放した。軽く食器に当たって音を立てる。
「ごちそうさま」
席を立ってその場を離れた。
「どこへ?」
「シャワー借りる」
「場所わかる?」
「わかんない」
「ここ出て待合室の奥のドア、そこ行けばわかる」
「わかった」
ナエの食事はヨウの三割程度でおしまいだった。
ヨウは残りの全てを平らげて、食器を洗って、ベッドの用意をした。
ナエがシャワーから戻って、用意されていたのは診察室に縦列で並ぶ三台のベッドのうち真ん中の一台だった。ベッドが横に並ぶほどの空間がないので縦に並べられている、という様子だった。手前がヨウのベッドで、奥は物置になっている。
「先に寝ていいから。おやすみ」
「うん、おやすみ」
ヨウは言い残してシャワー室へ向かった。一人残されて、ナエはベッドに腰掛ける格好からそのまま横になった。硬い感触。安眠を考慮して設計されたものではない。診察のための簡易な寝台に毛布が一枚。ヨウは毎晩ここで眠っている。ナエのベッドの枕の位置と、ヨウの枕の位置は同じだった。ヨウの頭の奥にナエの足がくる形だ。
ナエは体を起こして給湯室へ向かう。パジャマ代わりにするつもりで着てきたパーカーのポケットから未開封の錠剤を一錠つまみとって水で飲み下した。
ふいに罪悪感に似た何かが胸にこみ上げる。シュウを一人にしていることがとても悪いことのような気がした。シュウのそばに居ないことが自分をひどく頼りないものにした。
ナエはベッドに戻って毛布を被る。
すぐにヨウは戻ってくるだろう。それまでに眠ってしまいたかった。
目を閉じるとちらつくのはほの明るい白い繭のかたちばかり。
その中の、体を丸めた少女の寝姿。
シュウが自分の知らないところであの男に殺されるのだと思うとナエは取り返しのつかないことをしている気がした。
間もなくヨウが戻ってくる。
「ナエ?」
呼びかけに応えずにいると、どうやら寝入ったのだと納得したらしく、ヨウの動作のひとつひとつが静かになる。彼は院内のすべての鍵を閉め、照明を落として回り、診察室へ戻った。ベッドに入って、小さく呟く。
「おやすみ」
ナエは唇のかたちだけで返事をした。
こうして誰かの傍で眠るのは、思い返せば久しぶりだった。
夜はいつだって一人で、だから今ヨウの呼吸が聞こえることが、自分以外の誰かが立てる物音が、妙に際立って聞こえる。一人で居れば不意の物音も気にならないのに誰かがいるという状況に緊張する。
シュウは物音なんて立てない。繭が響かせる駆動音だけ。
呼吸はほんのささやかで、シュウの生きている証はとても見つけ難い。
こんなに近くに誰かがいる、自分ではないものが生きている、というのは不思議なことだった。寝返りを打つ、毛布のすれる音、喉を鳴らす、呼吸を繰り返す。耳を澄ませば、心臓の音まで聞こえるんじゃないだろうか?
ナエは息を潜めてじっと身を固くする。
目のかたちをした時計の針が秒刻みに動いている。
そして不意に寂しさに襲われる。
誰かと居ながらにして、心細く思う。シュウが恋しくて恋しくてたまらなくなる。
その衝動はすぐに収まるが表面的なもので、何かの拍子に簡単にぶり返す。
夕食前にふとつけたテレビのニュースが耳に残っていた。――八歳、女の子、母親、放置、死亡――殴打の痕跡――更なる捜査、動機の解明――遺体、川の下流――。眠りたいと思うのに耳の中で繰り返される。ナエはぎゅうと体を縮こまらせた。そうすることで音から逃げるつもりで、だけどそれはナエの頭で聞こえる声なのだ。母親に殺害された八歳女児の遺体が供述どおり川の下流で発見される。遺体の損傷が激しく判別は困難だが殴打を受けた痕跡。感情のない女の声が言う。
昼にうたた寝をしてしまったことを後悔した。寝付くことができない。
ニュースを読み上げる平坦な声がさらにナエを襲う。益々眠れない。
早く眠れと自分に念じた。
要するにこれはヨウの夢当てゲーム。
ヨウがどんな夢を見たか言い当てることができれば彼は納得して、ナエの言うことを認めて謝るだろう。ごめんナエ、きみは毎晩シュウと一緒に居るんだ、それは嘘じゃない。そう言ってもらえればナエもすっきり気持ちよくなれる。ヨウもきっと応援してくれる。シュウを殺すやつなんてぎたぎたにやっつけてしまえと言うはずだ。
その考えに興奮して、ナエはまだ眠れずにいる。
それはヨウにも言えたことで、ナエが傍に居ることで彼も眠れない時間をやり過ごしていた。誰かの息遣いが聞こえる環境が不思議で、傍に居るだけで室温まで上がったように感じる。
それでも仕事の疲れからかやがて彼は眠りに落ちた。
ナエはまだ起きていた。
ニュースキャスターの声と、シュウへの郷愁と、ヨウをやりこめる空想を繰り返す。眠れない、眠れない、眠れない……。
枕の位置を変えようと思った。
ナエは細いベッドの上を、毛布の下でうまく体を反転させて頭の位置を逆にした。
すぐ頭上にヨウの頭が来る位置だった。
ヨウの寝息は規則的で、ナエは先に眠ってしまった彼の呼吸に耳を澄ませた。
聞こえる音は他に時計の針の動く音、向こうで冷蔵庫が小さく低く唸る音、町で車が走っている、時折話し声も届く。
だけど部屋には静寂が下りていた。騒がしいものは何もない。
いつもの夜とよく似ていた。
ただ他人の呼吸が傍にある。それだけが違っていた。
ナエはいつの間にかヨウの寝息に会わせて呼吸していた。
誰かの体温を傍に感じてシュウを思った。
キャスターは淡々とニュースを繰り返した。
どこかで母親に殺された娘の遺体が見つかったらしい。遺体には殴打の痕跡、それが生前のものか死後のものか解析を急ぐ。解析を急ぐ――。
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