甲子園・素描
砂海原裕津
甲子園・素描
朝靄のなかの西宮。高架の高速道路はまだ閑散としている。午前七時、太陽はビルの谷間から顔を出す。動きはじめた街の一角、しかしここでは空気の質が違っていた。
絡まる蔦、緑の壁面。煉瓦敷きの道にしみこむ湿気。大型観光バスが何十台も連なって、駐車場へと流れていく。バスを降りた応援団はつぎつぎと球場に入っていく。
応援団の興奮した声、楽器や道具の奏でるカタカタという音、ほのかに香る潮の匂い、そして、芝の、黒土の匂い……。
上がりはじめる気温。快晴の空。今日も、暑くなる。
外野口から中へ。薄暗いそこは洞穴のように湿り気がある。同時に香る、また違った香り……グローブの革、ボールの布、しかしそれは判然としない。ただわかるのは、この香りには、興奮する何かが含まれていること。
輝くグラウンドには、まだ日が当たっていない。一塁アルプススタンドはすでに真夏の日差し。三塁側の影は、ゆっくりとひいていく。すり鉢のような球場が、朝の目覚め。大きく背伸びをして、浜風を吸い込む。
快晴の空、今日も、暑くなる。球場の体温も少しずつ上昇していく。
集い来る人々に、青春の日々が甦る。グラウンドの上の高校生たちの姿は、いつの時代にも変わることはない。あらゆる年齢、あらゆる世代が一つのビジョンを追いつづける時間。数万の人の目が空気の色を支配する、特殊な空間が出来上がる。
攻撃側のアルプススタンドに鳴り響く太鼓とブラスバンド。人の声はかくも巨大な力があるものか。白球の動きは人の声が支配しているような、不思議なパワーが満ちている。振動するスタンド。白いセメントに汗の雫が灰色の水玉模様を作る。ガクラン姿の繰り出す拳、振り下ろされるバチ。
渦巻く騒音に揉まれる人々の心には、黒茶の土と緑の芝生の上を縦横無尽に駆けめぐる白球の姿だけが浮かんでいる。その動きに応じて一喜一憂する劇場の舞台に立つことは、最大の名誉とされる。選ばれし者だけが立てる舞台……。
土と汗で汚れた硬球がピッチャーの手を離れ、くるくると回転する。迫るキャッチャーミット。しかし金属バットが渾身の力を込めて振り下ろされる。はじき返されるボールは、ピッチャーマウンドを削り、延びてくるグラブの罠をかいくぐって芝の上を転々とする。駆け寄る外野手のグラブが芝を摩擦し、ボールはふたたび宙を駆ける。三塁を蹴ってさらに走るランナー、ホームベースではキャッチャーが返球を待つ。0.01秒ごとに変わるドラマ。ボールとランナーはわずかな差で交錯する。一瞬すべての音が消える。六万の瞳が、主審の右手に集まる。拳は天に向けられた。瞬間、球場すべてが振動する。
ゴオオオオオオォ。
わずか十五秒のドラマが、一時間以上にも匹敵する。狭い空間で繰り広げされる、瞬間最大の興奮。幼い子供から年老いた方まで、同じ興奮にうち震え、手を叩き、息を吐く。勝敗の決するその瞬間まで、球場の体温は上がりつづける。
朝靄が晴れ、グラウンドに巻かれた水が蒸発していく。球場は今日繰り広げられるこの世で唯一のドラマを思い身震いする。これは、二度と繰り返されることのない演劇。ただ一度きりの炎。これが興奮せずにおれるだろうか。
甲高いサイレンが響く。バックスクリーンに先発選手が掲示される。時計の針が一つ進む。
さあ、いよいよはじまる。多くのドラマを見、多くの人の歓声を聞き続けてきた球場が、朝の目覚め。大きく背伸びをして、浜風を吸い込む。
快晴の空、今日も、暑くなる。しかし、それ以上にこの空間は熱くなるだろう。
<了>
甲子園・素描 砂海原裕津 @samihara
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