第12話

時折生ぬるい風が吹きつけて、空は今にも泣きだしそうだ。

時々歩みの遅くなる天音を強引に引っ張りながら、俺は足早に栗生さんの家を目指す。

門扉の外から玄関を覗くと、扉にはいつものように『ご自由にお入りください』の札がかかっていた。


「ほら、言った通りだろ?」


まだ不安そうな天音の隣で、俺は玄関の扉をゆっくりと手前に引く。

扉は何の抵抗もなく、キィという音を立てて開いた。

曼荼羅の部屋に入っても、天音は目を泳がせながら立ちすくんでいた。


「それにしても……」


俺は部屋の真ん中にゆっくりと座りながら、小さくため息をついた。

今更だけど、どんなに時間の工面が難しくても蒼空には週に一度は顔を出しておくべきだった。

そうすれば、休業の話も事前に聞けたかもしれない。

天音も俺の横にソロソロと座り込んで、うつむいたまま指の節を食んだ。

その手がわずかに震えている。

歯形がつきそうなほど噛みしめている様子に、俺は思わずその手首を掴んだ。


「天音、しっかりしろ。オマエのキモチはよく分かるけど、きっとシンジさんにも訳があるんだ」

「それは分かってるよ。でも、でも……」


こんなに狼狽えるコイツは初めて見る。

とにかく気持ちを切り替えて落ち着かせるのが先決だ。

じゃないと、明日のゲネプロだって危うくなる。


「……もう諦めて、本番に集中しよう」


焦って出た言葉に、掴んでいた天音の手がビクッと強張った。


「諦めるって、どういうこと?」


ゆっくりと顔を上げて、天音は俺を見据えた。

わずかに怒りを含んだ声色に、今度は俺の方が固まってしまう。

しまった……。

完全に説明をすっ飛ばしてしまった。

コイツは気持ちの余裕がなくなってるんだ。

なのに切り捨てるような言い方するなんて、俺、バカだ。


「ゴメン、言葉が足りなかった。会いたかったキモチは諦めて、やることをやらなきゃならないってことだよ。どうしたって今の状況が変わるわけじゃないだろ。オマエがそんなんじゃ、ずっと応援してくれてたシンジさんはガッカリすると思う」


今度は慎重に、ゆっくりと言葉を選んだ。

天音は無言のまま鋭い視線を寄越していたが、その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。


「俺だって、ショックだよ。でもどうしようもないし、仕方ない。コンサートには来てくれると信じて、頑張るしかないんだ」


その言葉に、天音はうなだれた。


「そう……だよな。頑張らなきゃ……」


もうこれっきり会えなくなったわけでもないのに、ここまで打ちのめされるなんて、シンジさんがいかに心の支えだったのかを思い知る。

掴んでいた手首を放して、俺は床に寝転んだ。

正直言うと、俺は少しモヤモヤしていた。

こんなにもコイツが上の空で返事をすることが今まであっただろうか。

どんな言葉も、慰めにも励ましにもならない。

それが俺の胸の底に鉛を沈める。

曼荼羅は相変わらず鮮明な色彩を放って、俺の目に映り込む。

でも、なんでだろう。

今日はそれがひどく褪せて見える。

俺は天音に背いて横に転がった。

お互い一言もしゃべらないまま時間だけがどんどん過ぎていき、モヤモヤはどんどん胸の中で膨らんでいく。

ギュッと目をつぶって煙ったい感情を振り払おうと、頭を振ったその時。

少し落ち着きを取り戻した天音の声が、空気を縛っていた沈黙を破った。


「ゴメン。俺、動揺しすぎてた。オマエの言ってくれるコト、ちゃんと分かってるから。……もしかして怒ってる?」


怒ってる?

俺は咄嗟に返事を返すことができなかった。

そんな風に見えてしまっている自分が情けない。


「怒ってないよ。ただ……」


そこまで言って、俺は小さくため息をついた。


「……ただ、俺は無力なんだなあって。こんな時にオマエを元気づけることもできない」


いや、本当は違う。

俺は多分、嫉妬したんだ。

天音をここまで弱くさせてしまえるほど存在感の大きいシンジさんに。

その証拠に、俺は天音に背を向けたまま、振り返ることができずにいる。

顔を見られたらきっと、コイツのことだから誤魔化しているのが分かっちまうから。

頑なに背を向けている俺を、どう思っているだろう。

再び訪れた沈黙の中、俺は一心に目の前の真っ白な壁を見つめていた。


「貫……、ホントにゴメン」


突然天音の声が耳元に聞こえた。


「えっ」


驚いて振り向くと同時に、背中に天音がしがみついてきた。


「ちょ、どうしたんだよ?!」


俺は反射的に腕を振り払い飛び起きた。

焦りながら向かい合うと、天音は哀しそうな顔で小さくつぶやいた。


「だってオマエずっとあっち向いててさ……」


仕方ないじゃないか。

自分勝手な嫉妬心に苛まれて、オマエの顔なんて見てられなかったんだ。


「なんだかオマエまでいなくなっちまうような気がして」


天音はそう言って、右手の甲でツイっと目尻を擦った。

……ダメじゃん、俺。

コイツを安心させたいのに、更に不安にさせちまってる。

俺はグッと腹に力を入れた。


「こっちこそゴメン。俺、正論ばっかり言ってオマエを急かしてた。ついオマエにもイライラしちまって……」


涙をこらえる天音は、唇をギュッと結ぶ。


「でもさ、俺までいなくなるって、シンジさんだっていなくなったわけじゃないだろ?ったく、勝手にふたりとも消すなよな?」


わざと冗談交じりに言ったものの、天音は小さくコクコクとうなずきながらうつむき加減になる。

前髪の陰になった頬に、涙が伝うのが見えた。

俺は切なくなって、思わず床についていた天音の手の甲をそっと握った。


「なあ、泣くなって」


握りしめた手の甲が微かに震える。

突然天音は俺の手を振り払って、今度は真正面から抱き着いてきた。


「えっ」


俺は一瞬グッと息が止まった。

俺の右肩に額をこすりつける天音の髪が、鼻先に触れる。

あまりの出来事に、心臓が口から飛び出しそうだ。

引き離そうにも、案外力強いコイツはびくともしない。


「あ、天音、だから、は、離れろって……」


しどろもどろになりながら、俺は左手で奴の肩を強く掴んだ。


「……こわ……いんだ……」


小さく、くぐもった天音の声が、よく聞き取れない。


「え?」


俺は固まったまま、肩に押し付けられた奴の頭に視線を移した。


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