第11話
4月。
新学期が始まって、再び学校とHARUKAと家をハシゴする生活が始まった。
学校の計らいなのか、2年になっても俺と天音、望月は三人揃って同じクラスになった。
6月のコンサートまであと2ヶ月を切り、土日も練習が入ってくる。
休みは水曜日のみとなり、俺たちは学業との両立にひどく苦労した。
あっという間に桜は花びらを新緑に変え、裸の枝から空を覗かせていた街路樹もフサフサと葉を揺らし始めた。
コンサート開催の6月に入ると、まさに最後の追い込みと言わんばかりの毎日が続いた。
俺たちは時間の感覚を失うほどHARUKAの練習にのめり込んでいた。
そんな状態だから曼荼羅の家どころか、蒼空にさえも足を運べない。
結局あの日置かれていたケースの持ち主は誰なのか、知ることはできなかった。
尋ねた俺たちに、シンジさんはさりげなく話題を変えたからだ。
天音のためにもアレが栗生さんのものであってほしかったけど、それも結局曖昧なままだ。
「皆さん、いよいよコンサートが週末に迫ってきました。心と身体の準備は万全ですか?」
練習の締めに、団員の前に立った舟橋さんがにこやかに言った。
「突然ですが明後日木曜日、会場のホールでゲネプロを行うことになりました。この度はオケが初演ということで、当日だけでなく事前にも、と打診がありました。ホールの調整上、間際の連絡になってしまって申し訳ありませんが、いつもの練習時間に会場で集合をお願いします」
団員の間にざわめきが起こった。
それもそのはず、このゲネプロでSIGNALというオーケストラが初めて全貌を現すのだから。
TASUKUが直接オケメンをスカウトして創り上げた楽団、そのスタートラインに立ち会えるなんて最初で最後の経験だ。
「森本さん、ゲネプロって要はリハーサルですよね?」
専門用語になると途端にあやふやになってしまう俺は、隣に立っている森本さんに小声で尋ねた。
森本さんは練習時いつも俺の隣にいる。
特にハッキリとした定位置が決まっているわけじゃないけれど、入団当初の練習で偶然隣に立って以来なんとなくそうなっているのだ。
だから自然と俺は森本さんにいろいろ教えてもらう機会が多い。
歳は25、6くらいだろうか。
もしかすると、津田さんに俺の面倒を見るように頼まれているのかもしれない。
「ああ、そうだよ。大抵コンサート当日だけなんだけど」
正直言うと、俺は普段の練習からオーケストラと一緒にやるものだと思っていたのだ。
それをずいぶん前に望月に言ったところ、楽器と合唱じゃ練習のポイントも速度も全然違うから、それぞれで練習しなきゃ却ってまとまらないんだと教えてもらった。
だからずっと、いつ合わせるんだろうと思ってたけど、こんな本番間際だなんてひどく驚いた。
舟橋さんの指揮でしか歌ったことのない俺は、果たしてそんな短時間でタスクの指揮についていくことができるんだろうか?
ブツブツつぶやいた俺は多分、相当不安げな顔だったのだろう。
森本さんはハハッと笑った。
「大丈夫だって。伴奏がオーケストラになるというだけのことだし、オケの指揮者はちゃんと合唱にもコンタクトを取るから、わからないってことはないよ」
「そうなんですね、俺、何から何まで初めてで……」
「本番も僕が貫の隣に立ってるんだから、安心しろよ」
そう言って森本さんは俺の肩を軽く叩いた。
先日ステージひな壇の配列が決められた。
合唱は基本的に前列に主力メンバーを置き、脇列と最後列には常に安定した音程で歌える実力者が配置される。
仮配置した後に実際に歌ってみて、声質の兼ね合いや響きを元に少しずつ配置換えしながら調節する。
最終的に俺はベースパートの3段目・端から2番目に配置された。
その隣端に森本さんが並ぶ。
もしかすると、いつも通りの雰囲気で俺を緊張させないよう配慮があったのかもしれない。
「はい、よろしくお願いします」
俺は小さく頭を下げた。
翌日水曜日。
先週末から梅雨に入った空には、朝から重たい雲がかかっていた。
高い湿度を保った空気が、どんよりと身体にまとわりつく。
夕方からは本格的な雨の予報だ。
俺と天音は学校が終わると同時に蒼空に向かった。
最近まったく行くことが出来ていなかったから、シンジさんもさぞかし心配しているだろう。
週末にはコンサートだというのに、サンドイッチを差し入れてくれるという話もあれっきりしていない。
もう一度改めてお願いしたかったし、なにより本番前にシンジさんに会ってホッとしたかった。
「……あれっ?!」
久しぶりに蒼空の扉の前に立った俺たちは、そのドアに見慣れない張り紙を見て困惑した。
『しばらく休業いたします』
最後に蒼空に来たのは確か5月のゴールデンウィーク明けだ。
その時には、店を休む話は一言もなかった。
そもそも一体いつから休業しているのだろう。
あらかじめ決まっていた事なら絶対に教えてくれるはずだから、このひと月あまりの間に何かあったということだろうか。
「天音、何か聞いてる?」
俺は隣に立ち尽くした天音を振り返った。
「いや、何も。っていうか、こんなこと初めてだよ」
奴は不安げに張り紙を凝視しながら、小さくつぶやいた。
天音がここを訪ね始めてから3年半が経っている。その間、長期的に店を閉めることはなかったそうだ。
「どうしたんだろう、体調でも良くないのかな……」
もしそうだとすると、コンサートを見に来てもらうどころじゃない。
事情を知りたいと思って気がついた。
俺たちは、この場所以外にシンジさんと連絡を取る手段を持っていない。
ここに来れば必ず彼は穏やかな笑顔で出迎えてくれたから、敢えて連絡先を知る必要がなかったのだ。
蒼空の電話番号は調べればわかるだろうけれど、休業中の店に電話をかけてもシンジさんにつながるわけじゃない。
仕方なく蒼空のポストに、来訪を報せるメモのような手紙を入れた。
コンサートまでにポストを覗いてくれるかどうかは分からないが、これ以外に方法はない。
それにしても、この間際にシンジさんに会えないなんて思ってもいなかったから、なんだか心がざわつく。
俺でさえこんな状態なのだから、天音はもっとだろう。
その証拠に、奴は顔色をなくして扉の前から動こうとしない。
ダメだ、この不安のまま本番を迎えるわけにはいかない。
「なあ、栗生さんの家にいこう」
あの曼荼羅を眺めれば、少しは落ち着くだろうか。
「でも蒼空が休みとなると、あそこも開いてるかどうか……」
動揺を見せる天音の声が震えた。
確かにそうかもしれない。
だけどなんとなく、あの家は開放されていると思った。
多分シンジさんのことだから、今日俺たちが訪ねるだろうことは確信していただろう。
休業と知って、落胆することも想定済みだと思う。
ずっとここを心の拠り所にしてきた天音には致命的になることも分かっていたはずだ。
ならばせめて栗生さんの家は天音のために開けておいてくれるんじゃないか?
「とにかく行こう。きっと大丈夫」
俺は天音の左腕を掴んで、大通りに向かって歩き出した。
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