第10話

「なあ、歌おうぜ」


薄く目を閉じた天音は、アヴェ・ヴェルム・コルプスの出だしをハミングし始める。

まだざわめく気持ちを持て余していた俺は、その音をボンヤリと聴いていた。

天音の手が、俺の左手に触れる。

カウントを取るために手の甲でも叩くのかと思いきや、奴はそのまま再びグッと握りしめてきた。

おい、だからそういうことするなって。

全神経が握られた左手に集中して、心臓が掌の中にあるみたいだ。


「聴かせてくれよ、俺の音。オマエの声で」


固まったまま動けない俺の手を包み込んだまま、天音は射貫くような視線で俺を見た。

かつてないほどの鼓動の速さに、呼吸が浅くなる。

こんな状態でコイツと歌うなんて、別の意味で無理だろ。


「ちょっと待て。とりあえず手ぇ離してくれないか?」


大体、なんでそんなに手を繋ぎたがるんだよ。

それよりも、ただ手を握られているだけなのに、なんで俺はこんなにも動揺してしまうんだろう。


「俺、こんな風に人と触れ合うことないからさ、緊張しちまうんだよ」


そうだ、これは相手がコイツだからじゃなくて、俺が慣れていないだけなんだ。

取って付けたような理由を挙げて、無理やり自分自身を納得させる。

天音は唇をギュッと結んで握りしめていた手をそっと離すと、一瞬寂しそうな瞳で俺を見た。


「貫は俺にも緊張するんだな。俺はオマエにそんな風に思ったことないよ」

「え?」

「俺、オマエに出会ってから、すごく世界が広がったよ。気づいてないかもしれないけど俺、今まで電話なんてかけたことなかったんだ。相手の声を上手く聞き取れないからさ。でも、オマエなら大丈夫だからって」


あっ、そうなんだ……。

言われてみれば、そうだよな。

面と向かっての対話も難しいのに、電話なんて更にハードルが高い。

俺にとっては当たり前のことでも、天音には特別だったんだ。


「さっき蒼空で鼻をかんだときも、そんなにすごい音だって知らなかったよ。振動は感じるから音が出てることは分かってたけど、今まで誰も教えちゃくれなかったし」


コイツにしちゃデリカシーに欠けるなと思ったけど、そういうことだったのか。

やっぱり俺はまだ、天音が住む音の世界がよく分かっていない。


「こんな風に人と手を繋ぎたくなるのだって、初めてなんだ。変かな。困ってる?」

「困るっていうか、さ。大体オマエ、なんで俺なんかと……」

「また「俺なんか」って言ってる。ソレ、辞めろよ」


タジタジになった俺に、天音は目を伏せてフッと笑った。


「さっきも言ったけど、安心するんだ。この前ここで歌った時、手ぇ握り返してくれただろ?あの時俺、ホントに独りぼっちじゃないんだって思えたんだ。ずっと孤独だったけど、今は貫がいてくれるんだって」


薄く濡れた瞳を緩く開いて、寂しそうに俺を見返す。

その表情に、加速していた鼓動にブレーキがかかる。


「俺、本当は人に触れたり触れられたりするのは得意じゃない。昔母に打(ぶ)たれては抱きしめられたって話したよね?そのせいなのか俺、どうも身構えちまって」


お母さんの話をするときの天音は、いつも辛そうだ。

暴力と抱擁の間(はざま)で、コイツはどんなに錯綜したことだろう。

陰湿な虐めにも遭っていたようだし、身も心も他人に許せなくなって当然かもしれない。


「でも、貫には平気なんだ。不思議だけど、初めて会った時から」


確かに最初もコイツの方から握手を求めてきた。

蒼空では抱きつかれたこともあったし。

そんなトラウマを抱えているのに、こんなにも心を開いてくれるのか、俺には……。


「天音」


さっきまでの動揺はどこかに吹き飛んで、俺は自ら奴の右手を力強く握りしめた。


「オマエが安心できるなら、いくらだってこうしてやる。俺は、オマエにいつも笑っていてほしい」

「貫……」


再び涙ぐみ始めた天音の手を、励ますように揺する。


「おい、また泣くんじゃねぇって。ほら、最初の音出してくれよ」


左手の甲で目をこすりながら天音はコクコクとうなずいた。

薄く開いた唇から押し出される音に耳を澄まし、握っている指先でカウントを取る。

流れるように始まったアヴェ・ヴェルム・コルプスは、一瞬でふたりの声を柔らかく融け合わせた。

初めて一緒に歌った時と同じく、天音の声を自分の声と錯覚するほどの心地よさだ。

壁面の反響に目を閉じると、水の中でたゆたっているような浮遊感が身体を襲ってくる。

まるで世界にたったふたりだけになったみたいだ。

俺は天井に顔を向けたまま、横目で天音の横顔を盗み見た。

奴は穏やかな優しい顔つきで、曼荼羅を見上げながら歌っている。

今までの雑念をすべて洗い流したようなすがすがしさだ。

余計な力を抜き去ってしまえば、人はこんなにも満ち足りた表情をするんだ。

本来聴こえないだろう高音の旋律に、奴はウットリと目を閉じる。

オマエ今、聴いてるんだな、自分の音を。

息とともに吐きだされる音が輝きながら四方八方に弾けて、また身体の中に戻ってくる。

こんなにも歓びに満ち溢れている音を、俺は今まで聴いたことがない。


「やっぱり気持ちいいな」


歌い終えた俺たちは、顔を見合わせて緩く笑いあった。

握りあっている手のひらの体温が同化している。


「もう蒼空に戻ろうか」


小さくつぶやいた天音の言葉に、俺は握っている手をそっと放そうとした。

しかし奴はニコッと笑って、もう一度強く手のひらを握ってきた。


「おい、帰るんだろ?」


戸惑いながら手を引っ込めようとすると、天音は更に笑いながら手を放してくれた。

ったく、どういうつもりだよ?

なんだかからかわれているような気もするが、こんなに無邪気に笑うコイツが俺には嬉しかった。

そうだよ、もっと笑えよ、天音。


「今いい顔してるよ、オマエ」


眩しそうに目を細めて、天音はコクリと頷いた。


「オマエも」


再び、クスリと笑い合う。

天音、ありがとう。

俺、ずっと自分に自信がなくて、いつも情けないなあって思ってた。

だけど、オマエが必要としてくれる俺を心から信じてみようって思う。

オマエがオマエ自身の音を信じるように。

天井に向き直って曼荼羅を眺める。

心なしか、釈迦如来の表情がいつもよりも柔らかい。

幾何学模様も殊更鮮やかな色彩だ。

意識が変わると、世界の見え方も違ってくるのか。

大袈裟かもしれないけど、なんだか生まれ変わったような気分だ。


「さーて、明日からまた頑張るかな!」


俺は勢いよく起き上がって、繋いでいる天音の手を引き上げた。

奴もヨイショと言いながら身体を起こす。

とりあえず蒼空に帰って、シンジさんが淹れてくれるコーヒーを飲もう。

俺と天音はもう一度、部屋の片隅に置かれているケースをチラッと見て、曼荼羅の家を後にした。


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