第9話

「どうした?天音」


かかとに引っかかっていたスニーカーを無理やり脱いで、俺は急いで部屋に飛び込んだ。

部屋の隅で天音はこちらに背中を向けてしゃがみこみ、しげしげと何かに見入っている。

その向こう側に、床に置かれた大きな白い塊があった。


「なに?」


俺も近付いて、奴の背中越しにそれを見下ろす。

それは弦楽器のケースだった。

この場所に物が置いてあることも初めてだ。

鍵がかけられていたのは、これがあるからだったのか。


「ずいぶん大きいな。なんだろう?」

「俺もよく分かんないけど、チェロかな」


チェロか。

本当に天音は何でも知ってるよな。

それにしても、どうしてそんなものがここに?

端から端までなぞるように目を走らせる。

ケースの向こう側に回り込むと、側面にさりげなく蔦の模様が刻印されているのが目に入った。

それは、よく見るとアルファベットのKを模っている。


「なあ、コレってイニシャルかな」


俺が指さした先を覗き込んだ天音の肩が、ビクッと強張った。

イニシャルKといえば。


「もしかしてコレ、栗生さんのかなぁ」

「貫もそう思う?さっきまでここに居たのかな」


天音は震える声で、ケースに手を触れた。

うつむいたコイツが今、どんな表情をしているのか分からない。

でも、無言になって何度もケースを撫でる指先に、俺は切なくなってしまった。

天音は栗生さんに会いたいんだ。

いくらシンジさんが橋渡ししてくれるといっても、自分を救ってくれた恩人と直接話をしてみたいのは当然か。

目の前にあるケースは、ハッキリとした実像がつかめない栗生さんの存在に鮮やかな色を付ける。

コレが栗生さんのモノだと決まったわけじゃないけれど……。

何かをこらえるようにうつむいた姿に、傷つき果てた昔のコイツが見えるような気がした。


「きっといつか必ず会えるって」

「え……」


ゆるゆると振り返った天音の目は、やっぱり若干潤んでいる。


「オマエ、会いたいんだよな?今のオマエがあるのは栗生さんのおかげだもんな。知らなくてもいい、なんて本当は思っていないんだろ?」


みるみるうちに涙が盛り上がってきて、ずっと抑え込んでいたものが溢れるように奴のほほを伝った。

いや、それとも。

今までは無意識に我慢していた、真の気持ちに気づいたのか。


「大丈夫だって。今日コレがあるのに俺たちを迎え入れてくれたんだから、一歩近づけたんじゃねぇの?」

「貫……」

「ったく、さっきからオマエ泣きすぎだろ?」


次から次へと零れる涙にもらい泣きしそうになって、俺はわざと笑い飛ばす。

コートの袖口で目をこすった天音は、赤くなった鼻の頭を手のひらで覆い隠しながら、小さく「ゴメン」とつぶやいた。

仕方ねぇなぁ、まったく……。

俺は部屋の真ん中に天音を引っ張っていって、その場にドスッと腰を下ろした。

戸惑いながら立ち尽くす天音の左手を掴んで、下に思い切り引く。


「うわっ」


天音は小さく叫んで、転がるように俺の横に座った。

俺はそのまま寝転んで、天井の曼荼羅を眺めた。


「天音。オマエも、ほら」


急き立てるように床を軽く叩くと、天音はおずおずと俺の横に寝転ぶ。

しばらく何の言葉も交わさないまま、俺たちは静かに呼吸だけを繰り返していた。

そっと真横の天音を盗み見ると、奴はボンヤリと目を開けて微かに唇を動かしている。

俺はその横顔に釘付けになりながら、天音の手を探り叩いた。

ゆっくりと奴がこっちを向いて、お互いの目が合う。


「音を確かめていたんだ」

「え?」

「初めてオマエと歌った時に出会えた、俺の音だよ」


天音はあの時、聴こえるはずのない音域が聴こえたような気がしたと言っていた。


「そうだったよなあ。でもオマエ本当はずっと前から知ってただろ?言ってたじゃないか、ココに来ると音が溢れるんだって」


天音は一瞬驚いたように目を見張った。

アレ?

そんなにおかしなこと言ったかな。

俺はやっぱり、こんな風に意外そうな顔をされると途端に不安になる。

そんな気持ちを察したのか、奴は頬を緩ませた。


「そうだよ。それが俺の音だってわかってはいたよ。でもそれは感覚だからさ、聴こえたと思ったのは初めてだった」


感慨深げに目を細めて、天音は突然左手の指先をキュッとつまんできた。

その感触に俺の胸もキュッと縮む。


「この音を正しく発声したいって思ってさ、それまで以上に音程にこだわるようになったんだ。だけど実際聴こえるわけじゃないしさ、ちょっと自信なくなってたんだ。俺、正確な『音』を出すこと出来てるよな?自分を信じていいんだよな」


誰が聴いても完璧な音階を天音自身が信じ切れていなかったという事実に驚きながらも、相変わらずヒヤリとした体温につままれた指先に意識が飛んでいく。

いやいや、ちゃんと答えてやらなきゃ。


「大丈夫だって。オマエの音はオマエを裏切らないよ」


天音はホッとしたようにコクリと頷いた。


「そう言ってもらえると安心する。貫にはいつも助けられるよ」

「……そんな大したこと、してねぇよ」


俺はわざとそっけなく言い放って顔を逸らした。

そうでもしないと、やっぱり何かおかしなことを口走ってしまいそうだった。

急にぶっきらぼうになった俺を不思議に思ったのか、奴は握っていた指を離して起き上がり、今度は真上から覗き込んでくる。


「そんなことない。オマエがいなかったら俺は歌うことだってしてなかったよ」


曼荼羅の色彩を背後に、天音の笑顔がひどく眩しい。


「それは望月のおかげだろ。アイツが合唱団に誘ってくれたから。俺なんかよりも望月に感謝しろよ」

「確かに望月はキッカケをくれたよ?でもそれだけじゃ今の俺はいない。そんなのオマエ知ってるだろ?」


俺はグッと声を詰まらせる。

さっきからコイツ、どんなに否定したってこっちが照れちまうようなことばかり言いやがって。


「貫はいつも自分を過小評価しすぎだよ。それにオマエは俺みたいに歌えるようにって焦ってるみたいだけど、どうしてそんなに?」

「そりゃそうだろ。俺はオマエと歌いたいよ。だけどお前の声は格が違いすぎて、俺なんかまったく釣り合わない。それじゃつまんねぇだろ?」


俺の言葉に、天音は『またか』と言わんばかりに呆れた表情を見せた。


「釣り合うって、どういうのを目指してるんだよ。俺はオマエと歌った時、シンクロしたと思ったんだけど」

「それは、俺だってそう思ったけど」


あの日、俺たちは確かにひとつになれた気がした。

HARUKAの誰と歌っても、あんな感覚に出会えることはない。


「貫と俺の声、こんなにも違うのに誰よりも近い。それだけじゃダメなのか?」


心の底から分からないというように、天音は唇を尖らせる。

俺はハッと気がついた。

今までコイツの声量や技術に追いつきたいとばかり思っていた。

なぜなら、それが一緒に歌える最低限の条件だと思い込んでいたから。

同等の実力を備えなければ、ハーモニーとして成り立たないと。

合唱団に入ったのだって、そういう理由からだ。

でも、きっと天音は最初(はな)からそんなこと気にしてなかったんだ。

そもそもこの底知れぬ天性は、望月が言っていた通り努力などで追いつけるものじゃない。

まったく違う声同士が共鳴し合えること。

それこそが『釣り合い』なのだとしたら、俺たちはきっと唯一無二の存在だ。


「いいのかよ、こんな俺で……」

「バカ、オマエじゃなきゃダメだって思ってるよ?」


まったく、そんなこっ恥ずかしいセリフ、よく平気で言えるな?

急激に顔が赤らむのを感じて、俺は思わず見おろされていた顔を思いっきり背けた。

コイツはいつだって、ありのままの俺を受け入れてくれる。

臆することなく伝えられる言葉はあまりにストレートで、コイツの顔がまともに見られない。


「バカはオマエだよ」


ボソッとつぶやいた俺に、奴はそうかなあと笑って、再び左隣に寝転がった。

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