第8話
「え?」
「あ、いや、なんていうかさ、そんな難しく考えなくてもいいっていうか……」
何言ってるんだろう、俺。
なんだか言いたいことが上手くまとまらない。
「オマエはきっと、どんな時も正確な音が出せるんだよ。タスクも言ったんだろ?楽譜から正確な音が出せるんだってさ。だからもっと自由に歌っていいんじゃないかなぁ。もしかしたら、タスクにはオマエが頑張りすぎてるように見えたのかもな。単純にそれが言いたかったんじゃね?」
天音は食んでいた指を唇から離して、驚いたように目を見開いて俺を見返した。
「栗生さん家(ち)で一緒にアヴェ・ヴェルム・コルプス歌っただろ?あの時どうだった?音を外さないようにとか考えてた?」
しばらく俺を凝視していた天音は、「あの時は、気にしてなかった」と小さくつぶやいた。
「あんな感じでいいんじゃね?俺だって歌詞の意味考えてんのか?って言われたらビミョーだぜ。なんてったってあーいう歌は日常からかけ離れてるからさ」
軽くおどけてみせた俺に、奴はクスリと笑った。
その笑顔に俺はホッとする。
「オマエの声ってあったかいよ。そうだなあ、包み込んでくれるような感じ?アヴェ・マリアにピッタリだと思うよ。だから音階だけにとらわれていちゃ、勿体ないって」
「貫……」
天音は右手の甲で、素早く目尻をこすった。
俺はコーヒーを飲むふりをして、さりげなく奴の顔から視線を逸らす。
真横からスンスンと鼻水をすする音が聞こえてきた。
シンジさんがカウンターの向こうから天音にティッシュを手渡す。
視界の端にティッシュを受け取る天音の右手が見えた次の瞬間、鼻をかむ音が店内に鋭く響き渡った。
「おいっ、もっと控えめにしろって。いくら客が俺たちだけだからって、マナー違反だろ」
遠慮のない濁音に、すかさず俺は肘で天音の脇腹を小突いた。
奴は慌てて鼻の下をふき取って、照れたようにうつむいた。
シンジさんがこらえきれないようにクックと笑う。
俺もクスっと笑って、改めてゆっくりと天音の横顔を見つめた。
「なあ、天音。また一緒に歌おうぜ。俺、オマエにはまだまだ追いついてないけどさ、曼荼羅の下で歌った時、俺もすっげー気持ちよかったし」
シンジさんは微かな笑みを頬に残したまま、身を乗り出して手を伸ばし奴の頭をクシャっと撫でた。
「天音、いい友達持ったな」
天音は子供のようにうなずいて再び鼻をすすると、ちょっとトイレと言いながらその場を離れた。
奴がドアの向こうに消えるのを見計らって、シンジさんが小さな声で話しかけてきた。
「オマエもオマエらしくでいいんだぞ。焦らず頑張れ」
やっぱりシンジさんはあったかい。
さっきから天音の悩みが深刻で、俺のモヤモヤなんてひどく自分勝手でちっぽけな気がしていた。
だからと言って俺の胸の底にくすぶる感情が消え去るわけじゃない。
それをさりげなく拭い去ってくれる。
俺も素直になって小さくうなずくと、シンジさんは眼鏡の奥の目を細めた。
「貫、俺はオマエの気持ちもよく分かるよ。俺も似たようなことあったから」
「え?」
それって、どういうこと?
聞き直そうと腰を上げかけた俺を、シンジさんは片手で軽く制した。
天音がトイレから出てきたのだ。
「このあと栗生さん家に行こうと思うんだけど、貫も行こうよ」
スツールに腰掛けながら、天音はマグカップを手に取った。
俺はシンジさんの言葉が気になって、チラチラカウンターの上を見上げた。
しかしシンジさんはバレないように微かに首を振る。
どうやら天音の前では話したくないことらしい。
仕方なく、何事もなかったかのように俺もマグカップに口を付けた。
「あぁそうだ。栗生の家、今日は鍵がかかってるんだ。オマエたち行くつもりなら、鍵貸すから帰りに返しにきてくれ」
「え、鍵がかかってるなんて初めてだね」
天音はひどく驚いた様子でシンジさんを見上げた。
夜中でも開けっ放しじゃないかと思っていたあの家に、こんな昼間から施錠してあるなんて滅多にないことだ。
「どうしたんですか?珍しいですね。もしかして今日は入っちゃいけない日なんですか?」
「いや、それなら最初から行くなって言うだろ?」
シンジさんはフッと笑って天音に鍵を寄こすと、シンクの中の洗い物を始めた。
「先にこっちに来て良かった。締め出し食らうところだった」
鍵には細かいカットが施されたクリスタルのキーホルダーがついている。
それは天井からの光を吸い込みながら、天音の手の中で七色に輝いた。
奴は軽く頭上に掲げて、そのきらめきを眺める。
「なんだか栗生さんらしい鍵だなあ」
俺もそう思った。
白壁の中の曼荼羅。
透明なクリスタルに七色の光。
どっちも多彩な色を際立たせる造りだ。
そして何より美しい。
こういうものを選ぶ栗生さんはきっと、芸術的に優れた感性を持っている人に違いない。
仕事もそういう方面の関係なのかな。
「シンジさん、栗生さんってどういう人?仕事とか」
ここに通い始めてもう1年、俺はようやくこの言葉を口にした。
なぜだろう、聞こうと思えばいくらだって聞けたのに、ずっと聞きそびれていたのだ。
しかしシンジさんは洗い物の手を休めることなく、俺の質問に答えてはくれない。
水の音で聞こえなかったのか?
もう一度問いかけようとした俺を、天音は軽く引っ張った。
「じゃあ真治さん、行ってくるね」
おい、ちょっと、と慌てた俺を無視して、天音はサッとコートを羽織ってカバンを手に取り店を出ていく。
俺も軽くシンジさんに挨拶をして、急いで奴の後を追った。
店の扉を出てすぐ、天音は諦めたような顔で俺を振り返った。
「真治さんは教えてくれないよ。実は俺も何度か聞いたことがあるんだ。でもその度に不自然なくらいスルーされてさ。俺はこの場所を失うわけにはいかなかったし、言いたくないなら別に知らなくてもいいやって」
そうなんだ?
そういえば俺を初めてここに連れて来たときコイツ、栗生さんが何者なのか知らなくてもいいようなこと言ってたよな。
そういうことだったのか。
「そっか。俺も、どうしても知りたいってわけじゃないけどさ。でもなんで教えてくれないんだろう?」
「そうだね、いろいろ想像するね」
苦笑いしながら歩き出した天音の隣で、俺は「ま、いいか」とつぶやいた。
いつも玄関扉にかかっている「自由にお入りください」の看板が、今日は引き下げられている。
俺たちは若干緊張しながら取っ手の鍵穴に鍵を挿した。
中に入れば変わりなく真っ白な空間が俺たちを迎え入れてくれる。
しかし、どことなくいつもと違う空気がそこには漂っていた。
ここは一見普通の家だし、いくら開放されているといえど勝手に入ってみようという人間はおそらくそういないだろう。
だからなのか今までこの場所で別の訪問者と鉢合わせたことはなかったけど、今日はついさっきまで誰かがここに居たような気配があった。
ハイカットのスニーカーを脱ぐのに手間取っている俺より先に、天音が曼荼羅の部屋に入っていく。
と同時に、扉の向こうから「あっ」という小さな声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます