第7話

3月最後の水曜日。

日差しはすっかり春めいて、開花宣言と共に桜の蕾がひとつ、ふたつとほころび始めた。

空はどことなく靄がかって、冬の冴えわたる空気とはずいぶん違う。

俺と天音は午後1時に待ち合わせて、久しぶりにふたりで一緒に蒼空に行った。


「貫、体調はもう大丈夫なのか?」


しばらく顔を出せなかった俺を、シンジさんも気にかけていてくれたようだ。

顔の半分を覆うたっぷりの髭と眼鏡の奥の表情はいつも穏やかで、人柄の良さをうかがわせる。


「はい、もう元気です。HARUKAにも先週木曜日から復帰しました」


早速サイフォンを準備しながら、シンジさんは微笑んでうなずいた。

昨日予定通り、タスクがHARUKAを訪ねてきた。

初めて会った時と変わらない和やかな雰囲気で、「最初にご挨拶に伺ったきり、ご無沙汰してすみません」とペコリと頭を下げる様子は、やっぱり親しみやすさを感じる。

オーケストラはHARUKAの合唱を一層際立たせる仕上がりにしたい。

そのために今日は歌を聴きに来たのだと言いながら、彼は団員の前に置かれた椅子にゆっくり座った。


「いつも通り、あなたたちの解釈で歌ってください」


世界的マエストロが真横に座っている状況に、指揮を振る舟橋さんがいささか緊張している。

初めて見せるその様子に思わず俺たちも力が入ってしまったけど、タスクは始終口元に笑みを浮かべて静かに耳を傾けてくれた。

それは純粋に俺たちの合唱を楽しんでくれているようにも見えた。

一通りレクイエムを披露した後、彼は満足そうにうなずいた。


「ありがとう。アンコールのソロも聴かせてください」


そう言って彼は、グランドピアノの傍に立っていた天音を振り返った。

舟橋さんが軽くうなずいて、手招きする。

天音は一瞬グッと唇を結んだ後に力を抜くように息を吐くと、ゆっくりピアノの前に進み立った。

いよいよ奴がHARUKAで初めてアヴェ・マリアを披露する。

俺は自分のことのように胸がドキドキした。

ピアノの前奏が流れ出し、それと同時に息を深く吸った天音の顔つきが変わる。

最初の音がその唇から奏でられた瞬間、早くも俺は総毛立った。

コレが今の天音の声か。

前回聴いたときよりも艶めいて、高音の伸びもなめらかだ。

その美しい旋律に、団員の間からもどよめきが起きた。

相変わらず正確な音程に、どこが可聴音域を外れた部分なのか全く分からない。

俺はそっと斜め後方に立っていた望月を盗み見る。

感情が読みとれない、物静かな表情だ。

やっぱり悔しいと思っているのか。

それとも、見守るような気持ちだろうか。


「すごいな。こんなに自在にファルセットできるなんて」

 

真横に立っていた森本さんが唸るようにつぶやいた。

俺も小さくうなずいて、歌い続ける天音の顔をじっくり眺めた。

タスクを前に、この堂々たる歌いっぷり……。

天音、オマエやっぱりすごいや。

俺、ホントにオマエと対等に歌えるようになれるかな。


「ふたりとも、昨日上手く歌えた?」


漏斗を攪拌しながら、シンジさんは上目遣いで俺たちを見た。


「俺はまだまだですよ。天音はもう、完璧でした」


ホールに響いたあの声を思い出しながら、俺は頬杖をついてシンジさんを見上げた。


「そんなことないよ。めっちゃ緊張してたし」


わずかに眉を寄せながら、天音はひどく謙遜する。

そうなのか?

とてもそんな風には見えなかったけど。

俺は横目でチラっと奴を見ながら、バレないように小さくため息をついた。

あの後、天音はタスクと山崎さんに呼ばれて別室に入ったきり、帰りの時間まで出てこなかった。

練習の間ずっと俺は、胸の中に渦巻く焦燥感をなだめながら、それを顔に出さないようにすることに必死だった。

頑張らなきゃ、という気持ちが空回りしている。

これじゃ天音が遠ざかっているんじゃなくて、俺が立ち止まっているだけだというのも分かっている。

そんな自分がもどかしくて、俺は振り切るように頭を掻いた。


「あーゴメン。俺、やっぱオマエの歌聴いて焦っちまってんだよな。早くオマエみたいに歌えるようになりたいのにさ、うまくいかなくて」

「俺みたいに?」


天音は一瞬苦々しい表情を見せて、テーブルに視線を落とした。


「昨日TASUKUが言ってたんだけど。俺、どうやら絶対音感があるみたいなんだ」

「絶対音感?」

「俺は耳がこんなだから、自分がそうだとは思ったことなかったけどね」

「へぇ……」

「それと、相対音感もいいらしいんだ。だから多分、想像する音も楽譜から正確に出せるんだろうって」


俺はふと、曼荼羅の家で一緒にアヴェ・ヴェルム・コルプスを一緒に歌った時のことを思い出した。

コイツはアタリマエに最初の音を出してくれたけど、あれだって天音だからこそ確かな音だったのか。

絶対音感も相対音感も聞いたコトがある程度で、実際どういうものなのかはよく分からない。

でも「音感」というくらいだから、音楽をやる者にはあったほうがいい能力なんだろう。

そんなもの持ってるコイツには、ますます追いつくことなんかできそうにない。


「はい、お待たせ」


カウンターの向こうから、シンジさんがマグカップを手渡してきた。

淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻を抜けて、ささくれだった気持ちがほんの少し和らぐ気がする。

天音もソレを受け取ると、両手で包み込むように持ってカフェオレの表面に息を吹きかけた。

緩やかに立ち上っていた湯気が一瞬飛ばされて、またもとの形に戻る。

天音はゆっくりとマグカップを置いて、困ったような笑顔でこっちを見た。


「だけど言われたんだ。今の俺は、ただ音を追っているだけじゃないか?って」


ん?

それはどういう意味だろう。

俺は戸惑いながら奴を見返した。

天音はゆっくりと首を横に振って、マグカップの中を覗き込みながら小さくため息をついた。


「歌の意味とかも考えてる?って聞かれてさ。俺、答えられなかったよ」


あの歌を聴いただけで、そこまで分かってしまうものなのか?

っていうか、天音はいつもそんなにも余裕がない状態なんだろうか。

全然気づかなかった。

むしろ、聴こえない音も難なく出せるようになったんだと思っていたくらいだ。

なにしろ天音が音を外したところを見たことがないのだから。


「確かにTASUKUの言う通りなんだ。聴こえない音が合ってるのか、いつもそればかり気にしてる。当然歌に感情がこもってない。それじゃ本当の意味で歌ってることにはならないだろ」

「そんな厳しい言い方されたのか?」

「いや、TASUKUはさっきの質問を投げかけてきただけ。彼は俺に自分で気づいてほしかったんだと思う。今のままじゃダメだって」


タスクの言葉を、そう捉えたんだ?

確かに、時には指揮者として演者に鋭い指摘をすることもあるだろう。

でも、それならそうと彼はハッキリ言うような気がする。

そんな否定的なことじゃなくて、もっと別のコトを伝えたかったんじゃないかと、俺は漠然と感じていた。


「俺みたいに歌えるようにって貫は言うけど……」


自嘲気味につぶやいて、天音はおもむろにカフェオレを一口飲んだ。

天井から差し込む光に、栗毛色の髪が透けるようにきらめいている。

無言になった天音は、指の節を軽く食んでいた。

考え込むときのコイツの癖。

突然俺は、初めて天音が「歌いたい」と言った日のことを思い出した。

コイツの歌声を聴いていたいって言ったあの時も、ずっと指の節を食んでいたよな。

すごく悩ませちまったのに、俺の言葉に応えてくれて……。

俺はカウンターの向こうのシンジさんを見上げた。

さっきから俺たちの会話を聞いているだろうに、一切口を挟まずに見守ってくれている。

視線が合うと、シンジさんはその目を細めて小さくうなずいた。


「よくわかんないけどさ。オマエが楽しく歌えないのは嫌だな」


気が付けば、無意識に俺はボソッとつぶやいていた。

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