第5話

「ちょっと茶して帰らねぇ?松坂もさ、病み上がりで悪いんだけど」


2階のファミレスの方向に顎をしゃくる。

いきなりの誘いに驚いて、俺は素早く腕時計を確認した。

もう9時半を過ぎている。

これからファミレスに入ったら何時になるか分からない。

困ったなと思いながら望月を見ると、奴は何かを決心したように唇を結んでいた。

そうだ、コイツも明日朝からバイトなのに敢えて寄り道をしようなんて、それなりの理由があるのだろう。


「でも、もう時間遅い……」

「俺も、ちょうど喉乾いてた」


戸惑いながら断ろうとする天音を差し置いて、とっさに誘いに乗る。

望月は小さくうなずいて、天音の上腕を素早く掴んだ。


「岡崎もちょっと付き合えよ」


有無を言わさない視線を受けて、天音も曖昧にうなずいた。

店内は、半分ほどの席が埋まっていた。

いつも練習前に立ち寄っている客層と違って、仕事帰りのサラリーマンやOLの姿が多い。

私服で良かった、制服ならひどく目立っただろうなと思いながら軽く見渡す。


「一番奥の席に行こうぜ」


望月が素早く席に向かって歩いていく。

俺たちも引っ張られるように連れだって、望月の後を追いかけた。

ドリンクバーを注文して、とりあえず俺はアイスコーヒー、天音はオレンジジュースを取って横に並んで座る。

いつもはすぐに一気飲みする天音が、今日はストローを挿したまま一向に手をつけようとしない。

それだけでなんだかいつもと勝手が違って、俺はひどく落ち着かない気分だ。

ジンジャエールをなみなみと注いだ望月が席に戻り、俺たちの目の前にドカッと座る。

やはりコイツもいつもと全然違う。

望月は上目遣いで天音を見ながら、素早くストローを吸った。


「ところで岡崎、合唱団に誘った俺が今更こんなこと聞くのもなんだけどさ。オマエ何のためにHARUKAに入ったんだ?」


何言ってるんだ、コイツ?

俺は訝しげに望月を見遣った。

真横に座っている天音も戸惑っているようだ。


「何のためにって、音楽が好きだからだよ。でも合唱団で歌うことはできないと思ってた。俺、中学まで音楽の授業受けてなかったから、歌そのものを聴く機会もあまりなかったんだ。だから日常的に生の歌に触れたかったし、いろんな歌をたくさん知りたかった」

「岡崎、授業も受けてなかったのか?」


望月はひどく驚いた様子で声を上げた。

親や学校によって、理不尽に遠ざけられた音楽の世界。

それは多分俺にだけ打ち明けられた話で、他の人間には話す機会もなかったのだろう。

俺は天音の横顔をそっと盗み見た。


「うん、親と先生が勝手に決めて、俺の意志なんて確かめてもくれなかったんだ。HARUKAに来て、最初は本当にみんなの歌を聴けるだけでいいって思ってたよ。だけど、こうして歌えるように指導してもらって、俺もみんなと一緒に歌えたらって……」


天音はどんどん小声になって、テーブルに視線を落とす。

望月は無言で奴を見据えて、腕を組んだ。

目の前のアイスコーヒーの氷が、カランと小さく音を立てる。


「なあ、岡崎。俺の本音、聞いてくれよ」


腕組みをしたまま、望月はいつもより低めの声でゆっくりと話し始めた。

望月の本音?

突然の話に驚いて、俺ははじかれたように望月を見た。

今までコイツは、裏表なんてない奴だと思っていた。

相変わらず視線を上げない天音に、俺は「聞こえてる?」と声をかける。

奴は小さくうなずく。


「俺さ、初めてオマエの歌声聴いたとき、絶対にコイツは大物だって思ったんだよ。授業すら受けてないほど、音楽から切り離されていたなんて驚いたぜ。あの時オマエが入団してくれて、本当に嬉しかった。でも俺、実はオマエに嫉妬してた」


望月は丁寧に、しかし一気に話して、気持ちを落ち着けるかのようにジンジャエールを一口含んだ。


「俺、歌を始めてかれこれ7年だけど、正直才能はないと思ってる。だからずっと努力してきたんだ。だけどオマエには才能があるよ。努力だけじゃ追いつけない部分を越えていくオマエを見ていて悔しかった」


あからさまに片頬をゆがめる表情に、ずっと隠してきた望月の葛藤が見える気がした。

こんな表情をする奴だなんて初めて知った。

でもきっと今までは見せられなかったんだろうな。

天音を歌の世界に引き入れるきっかけを作ったからには、その感情を表立って晒すことは望月のプライドが許さなかったのだろう。


「山崎さんに褒められたこととか、アンコールソロの話とか、聞くたびに俺はモヤモヤしてた」


自嘲的に笑いながら、望月はひとりで何度もうなずいている。

そういえば、確かに悔しそうな顔を見せたことがあったのをふと思い出した。

天音は視線を落としたまま、「ゴメン……」とつぶやく。


「別に謝ることじゃないだろ?」


俺は思わず奴の肩を掴んで揺らした。


「そうだよ、コレは俺の問題だし謝ってもらいたいわけじゃない。でも正直、オマエが悩んでるの見て、なんか贅沢だよな、なんて思っちまったんだよな。」


望月の明け透けな言葉に、俺は引っ掛かりを覚える。


「おい、望月、それは言いすぎじゃないか?天音だってみんなと一緒に歌いたいって思ってるんだよ。それができないから辛いんじゃね?」


思わず言い返した俺を一瞥して、望月は天音をグッと見据えた。

その視線の強さを感じとったのか、天音はようやく望月の顔を不安げに見返した。


「俺、みんなと一緒に舞台に立ちたいって思うよ。だけどやっぱりそれはできない。ソロの話は本当に嬉しいけれど、それなら合唱団にいる意味もないし、全部俺の勝手のような気がするんだ」


天音の言葉に、望月はフンっと鼻で笑ってみせる。


「オマエが入団できたのは、いずれ機会をみて歌わせようって上部の人間が決めたからだろ。そもそもオマエの声は合唱向きじゃないんだ。そんなの、他の団員達も分かってるさ」

「それなら尚更、申し訳ないだろ……」


天音は消え入りそうな声で、再び頭を垂れた。

そうとうショックだったのだろう、こんな意気消沈したコイツを見るのは初めてだ。

望月は眉をひそめて、思いっきり長いため息をついた。


「オマエさあ、団の一員として自分に与えられた役割をしっかりこなせよ。甘えんなって、まったく」


なんだよ、ソレ。

ずいぶん乱暴じゃねぇか。

大体いくら才能があるといっても、音に対して致命的な障害を抱えながら歌うということが、どんなに大変か知ってるだろ?

血のにじむような努力を奴も見てきたはずなのに、なんでそんなこと言うんだよ。


「望月、いい加減にしろよ。オマエだって天音の耳のことは分かってるだろ?」


声を荒げた俺に、奴は思いがけず鋭い視線を寄こしてきた。


「ああ、もちろん分かってるさ。だけどここに入った以上、それが免罪符になるわけじゃない。岡崎だって、それを承知で頑張ってきたんだろ?だったら、自分を『異質』とか言うなよ。オマエは正規の団員だし、歌う歌は違っても俺たちと同じ舞台に立つんだから」


言い聞かせるような声色に、俺はハッと気が付いた。

さっきから厳しいことばかりだけど、望月は天音に聞こえやすいようにすごく気を遣っている。

いつもはもっと早口で高低差の激しい声だから、天音は俺たちの会話についてこられないんだ。

コイツもしかして、弱気になった天音をわざと刺激して、やる気を取り戻してやろうという魂胆なのか?

店に入る前の奴の表情を思い出し、俺は口をつぐんでふたりを注意深く見守った。

ギュッと唇を噛んで言葉を探すように目を泳がせていた天音は、しばらくしてようやく震える声を絞り出した。


「望月、ホントゴメン。俺、自分が合唱に入れないことに負い目を感じてた」


泣き出しそうな横顔に、胸が痛くなる。


「HARUKAの団員であることに変わりはないのにな。合唱にはどうしたって入ることはできないんだから、自分に出来ることをやらなきゃならない。そうだよな」


深々と頭を下げる天音に、望月は少し照れたように顔を背けた。


「くそっ、こんなこと言うつもりなかったぜ。悔しいけど俺はオマエの歌声ホントにすごいと思ってるんだ。だから余計に腹が立って我慢できなくなっちまった」


急に早口になった望月は、グラスに半分ほどになったジンジャエールを一気に飲み干した。


「松坂、こんな話に付き合わせて悪かった」


俺は慌てて首を横に振る。

今までずっと気のいい仲間だとしか思ってなかった望月が、天音に対してこんな感情を持っていたなんて驚いた。

でも確かに、山崎さんの件を聞いた時の表情は本当に悔しそうだったよな。

コイツもその都度、自分の中の感情に折り合いをつけながら頑張ってきたんだ。

きっと天音は望月の気持ちを受け止めて、ソロの舞台を全うする覚悟ができたと思う。

それでも、ひとり別舞台で頑張らなきゃならないなんて、やっぱり寂しいだろうな。

合唱でもソロでも、歌うことには変わりはない。

だけど合唱で生まれる一体感は、ソロでは得ることのできない絆だ。

それを天音にも感じさせてやりたい。


「なあ、望月。こんな話の後だけど、ちょっとお願いがあるんだ」

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