第3話
「そうだよな、ずっと寝てたんだもんな。喉に負担かけないようにしなきゃ」
天音もスッと立ち上がり、俺の目の前に立つ。
栗毛色の髪が目の前で揺れた。
久しぶりにコイツの顔を間近で見て、一瞬息が詰まる。
ホント綺麗な顔してるよな、コイツ。
「肩に力入ってるぞ」
天音は両手で肩を軽く掴む。
いや、そんなことされたらもっと強張っちまうって。
身体に余計に力が入った瞬間、今度は素早くヘソの下に拳を突き付けてきた。
「なんだよ、こっちはずいぶん緩いな。肩と腹、力の加減が逆だろ?」
俺の目を見据えて、天音はニヤリと笑った。
俺は自分に苦笑しながら、下腹にグッと力をこめる。
「まずは声を出さずに、呼吸だけ」
天音は俺の様子をじっくり観察しながら、ゆっくり丁寧に手順を踏む。
山崎さんから受けたトレーニングをなぞったやり方なのか、指導の仕方は上手い。
耳に障害がなければ、もともと頭のいい奴だし、指導者の立場でも十分やっていけそうだ。
「うん、だいぶん喉が開いてきたよ。ハミングでこれだけ出せれば、明日は大丈夫」
「じゃあ、歌ってみようか」
「いや、歌ってもいいけどさ、ここ住宅街だし響くぜ?喉の状態さえ整えておけば、声は自然に出るようになるから」
ツイっと見上げながら天音はニコッと笑った。
その笑顔がやたらにまぶしく見えて、心臓の鼓動が加速する。
ったく、コイツ相手にこんなふうになるなんてどうかしてるぜ。
「なんかちょっと腹減らねぇ?」
そのグレーがかった瞳から目を逸らしながら、俺はごまかすように勢いよく伸びをした。
「あ、もう昼過ぎか」
「オマエの差し入れ、食おうぜ」
キッチンで紙袋の中身を開く。
五つの茶色の紙袋には揚げ物が入っていて、それぞれに形や大きさが違う。
エビフライはすぐわかったが、ほかは多分コロッケやトンカツだろう。
数えてみると、それだけで15個もあった。
竹皮の包みも五つあり、開けるとひとつにつき3個おにぎりが入っている。
おにぎりも15個か……。
「あ、ココのおにぎり、ホントに美味いんだぜ。中身は食ってからのお楽しみな」
カウンター越しに天音ははしゃぎながら話しかけてくる。
俺はうなずきながら、電子レンジで軽く温め直して黙々とそれらを大皿に移し替えた。
「天音。一応聞くけどさ。コレ、ふたりで食おうと思って持ってきてくれた?」
大皿に山盛りになった揚げ物とおにぎりを見て、俺は少々呆れたように奴を見た。
「そうだよ?貫だってしっかり食って体力つけなきゃ」
って、この量はどう見ても二人分じゃない。
テーブルに準備されていた焼きそばの量と比較して、コイツの胃袋の大きさに改めておののいた。
とりあえずテーブルに大皿を運んで、お茶を用意する。
天音はお預けを食らった犬のようにソワソワしながら、ダイニングチェアに座って俺が席に着くのを待っていた。
「いただきます!」
手を合わせて早速揚げ物のひとつにかじりつく。
「あ、コロッケだ。美味いな」
見た目とは違って、案外油のしつこさがない。
これなら思ったよりたくさん食えそうだ。
「だろ?俺、揚げ物はココのが一番だって思ってんだ」
あっという間にコロッケと一口カツを腹に納めた天音は、おにぎりに手を伸ばす。
「あ、よかったら焼きそばも食っていいよ。俺、オマエが持ってきたやつ食いたいし」
「うん、ありがとう。食う、食う」
奴は満面の笑みでうなずきながら、おにぎりを頬張った。
コイツ、本当に美味そうに食うよな。
俺も手前にあるおにぎりを手に取る。
中にシイタケの佃煮が入っていた。
おにぎりの具としては珍しい。
「貫の中身、何だった?俺、ビビンバ」
ビビンバ?
それも面白いな。
聞くところによると、その総菜屋のおにぎりは、他ではあまり聞いたコトのないような具がウリらしい。
「中身はランダムに包んでってお願いしたんだ。ロシアンルーレットじゃないけど、ちょっとビックリするような奴も入ってるから」
エビフライをかじりながら、奴はククっと笑う。
ビックリするような?
でもまあ食えないものが入ってるわけじゃないだろうと、俺は次のおにぎりに手を伸ばした。
一口ガブリとかじりつく。
「うっ!!!」
途端に口内にビリリっと強い刺激が走った。
涙目になりながら、慌ててお茶を流し込む。
「あ、アタリ?」
奴は愉快そうに、俺の右手に掴まれたおにぎりをのぞき込んだ。
「コレ何?」
「南蛮味噌。すごく辛いけど美味いだろ?」
辛い、なんてもんじゃない。
ハッキリ言って痛い。
コイツ、こんな辛いもの平気なのか?
喉にもかなり負担がかかりそうだけど。
「ゴメン。俺、これはちょっと食えないや。辛いの嫌いじゃないけど、ここまでだと無理だ」
俺は丁寧に謝って、手にしていたおにぎりをとりあえず皿の端っこに戻した。
「そうかぁ、残念。オマエには辛すぎるのか」
天音はエビフライを尻尾までバリバリと食い尽くすと、俺のかじりかけの南蛮味噌おにぎりを素早く掴んで食べ始めた。
途端に、再び心臓がコトリと音を立てる。
「あ、オマエ、風邪移るって……」
「大丈夫だって、気にしすぎだろ?くぅっ、辛いっ!コレがいいんだよなぁ」
頬を紅潮させて、奴はクシャリと顔をしかめる。
今まで回し飲みの経験すらなかった俺は、ためらいもなく他人が口を付けたものを食べる様子に驚いた。
コレって間接キスって奴じゃねぇの?
友達同士なら普通のことなのか?
まだ痺れる舌を持て余しながら、俺は胸の高鳴りを鎮めるためにもお茶のおかわりを飲み干した。
天音は俺の戸惑いに全く気付くことなく、着々と大皿を平らげていく。
あぁ、きっとコイツには普通のことなんだな、変に意識する方がおかしいんだ。
無理やり納得して、痺れを飲み込むように再び揚げ物にかじりついた。
結局なんだかんだ言いながら、あんなに大量にあった差し入れは見事にふたりの腹に納まった。
といっても、やっぱり大半は天音の腹の中だが。
食後のコーヒーを淹れるためにキッチンに立った俺の後ろで、天音は「腹いっぱい」と言いながら、リビングに戻っていく。
ソファでふんぞり返っている奴を眺めながら、思わず笑みがこぼれた。
時々不可解な感情にドキドキすることはあるけれど、こんなに気を遣わないで一緒にいられる相手にはなかなか出会えないだろうな。
俺はひどく満ち足りている自分に気づいた。
コーヒーを攪拌する手先が自然と優しくなるのを感じる。
それに応えるかのように、漏斗からは甘くまろやかな香りが立ち上り、俺の鼻先をくすぐった。
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