第2話

急いで玄関を開ける。


「あ、良かったー、全然出てこないから電話しようかと思ってたよ」


門の向こうで、俺の顔を見るなりホッとした様子で天音は笑った。


「え、もしかして何度かチャイム鳴らした?」

「うん、3回くらい。しつこいかなと思ったけど、オマエ絶対家にいるはずだと思ってさ」

「ゴメン、ちょっとうたた寝してた。入れよ」


天音はいそいそと門扉を開いて、玄関に入ってきた。


「コレ、差し入れ。昼、一緒に食おう」


スニーカーを脱ぐ前に、左手に持っていたでっかい紙袋を差し出してくる。

受け取るとずっしりと重たい。

思わず中を覗くと、竹の皮に包まれた塊と、茶色の紙袋がいくつか見えた。

揚げ物の匂いがする。


「うちの近くの総菜屋で買ってきた。美味いんだよ」


俺は未だ天音の家には行ったことがないけど、ずいぶん遠い場所のはずだ。

確か、うちまでは乗り換えを含めて15駅ほどだったと思う。

駅からの移動を含めれば、コイツの家からは1時間以上かかるだろう。

こんな重い荷物持ってわざわざ訪ねてきてくれたのか。

キッチンに紙袋を置いて、俺は早速サイフォンを準備し始めた。


「貫、かまわなくていいよ。オマエ、病み上がりだろ?」

「ははっ、ホント大丈夫だって」


手元のアルコールランプに火をつけて、カウンターの向こうをチラッと見る。

天音はリビングのソファに浅く腰掛けて、天井を回るプロペラを眺めていた。

上を見上げているコイツを見ると、あの曼荼羅を思い出す。


「天音、最近栗生さん家に行ってる?」


俺自身は文化祭の後に行って以来だ。

望月が言ってた通り、オケとのコラボ曲が発表されたと同時に、練習はそれまでとは比べ物にならないほど厳しくなったからだ。

HARUKAに通うだけで体力を使い果たし、毎週水曜日に通っていた蒼空でさえ二週間に一度行けるかどうかになっていた。


「春休みに入ったし、昨日やっと練習前に行ったよ。学校があるときはHARUKAだけで精一杯だったから」


天音ですら、そんな状態だったのか。

音楽とか合唱って文科系の括りになるのだろうけれど、本気で歌ったら軽くマラソンでも走ったような疲労感に襲われる。

更に俺には、長年合唱をやってきた人たちの足を引っ張ってはいけないという焦りもあった。

コーヒーをゆっくり撹拌しながら、今回の熱は風邪とかじゃなくて精神的な疲れから来たのかもしれないと思った。


「俺も行きたいな。でも、もうちょっとしっかり身体戻してからだな」


独り言のような俺の声に、天音は云々と頷いた。


「昨日望月と話しててさ、アイツもすごく心配してたよ。一緒にオマエの様子見に行こうって誘ったんだけどアイツ、バイト入ってるって残念がってた」


学校が長期の休みに入ると、望月は短期バイトを始める。

HARUKAにかかる費用を少しでも自分で工面したいんだと、夏休みに入る前に話していた。

フラスコに戻ったコーヒーをマグカップに注いで、天音にはミルクをたっぷり入れてやる。

カフェオレを受け取って、天音はバッグからA4サイズのチラシを取り出した。


「コンサートのチラシ、できたんだって。昨日貰ってきた。貫も早く見たいだろうと思って」


渡されたチラシは全面写真で、曇天の草原の片隅に後姿の女性が祈りを捧げながら跪いている。

あたかも昔の写真のように若干色褪せた加工がしてあり、それが何とも言えない物悲しさを漂わせていた。

チラシの下部には、蔦をモチーフにした装飾文字でHARUKA+SIGNALとデザインされ、曲目や開催日時・アクセス方法などが記載されている。

曲目の下にさりげなく「指揮・TASUKU」と書いてあり、チケット情報が解禁されれば、たちまち世間を騒がせるだろうことが容易に予測できた。

約二年間の完全沈黙を破って登壇するというだけでもセンセーショナルだろうに、この情報だけではSIGNALがどんなオーケストラなのか皆目見当がつかない。


「HARUKAのコンサートなのに、なんだか話題は全部タスクに持って行かれそうな感じだな」


天音に向かい合って一人掛けのソファに座った俺は、チラシを眺めながら小さくつぶやいた。

マグカップに口をつけながら、天音は首を傾げる。


「でも、舟橋さんたちもそれは承知の上なんじゃないかな。そもそも毎回オケとコラボするってこと自体、話題性を重視した結果だと思うし」


そうか、そうだよな。

話題性、という面においては効果絶大だ。


「でもやっぱり、俺たちの歌を目当てに来てほしいって思うけど」


憮然とした響きを含んだ俺の声に、天音はクスッと笑った。


「貫、オマエってホント……」

「ん?なにかおかしかった?」


訝しげに見返した俺に軽く微笑んだまま、天音はマグカップをテーブルに置いた。


「いや、ほかのみんなはTASUKUと共演できるのが嬉しくてさ、貫みたいに思ってる人なんていないみたいだろ?」


コラボオケが発表された日の、団員の様子を思い出す。

俺は多分、タスクが世界的指揮者ということに未だ実感がないのだ。

そもそも彼が指揮を執っているのを見たことがない。

ネットの動画などにいくらでもアップされているだろうから見ればいいんだろうけど、なんとなくそれは気が進まなかった。


「まあ、みんな舞い上がってるから今はいいだろうけど、実際会場で観客がTASUKUばかりに注目していたら、貫が言うように面白くないだろうね」


俺は天音が何を言いたいのかよく分からず、無言で奴を凝視した。


「学園祭の準備の時も思ったんだけどさ、オマエって人の気持ちを先々まで見通すことができるよな。あの時だって佐藤の不満を予測してたしさ、今だって」


ここまで聞いて、ようやく俺は天音がさっきの言葉をひどく好意的に解釈していることに気づいた。


「いやいや、何言ってんだよ。学園祭の時は逆の立場だったら嫌だろうって思っただけだぜ。そんな大した話じゃないし、むしろ俺は人の気持ちに鈍感だと思うけど」


驚いて言い返した俺に、奴は俺の手にしているチラシをテーブルの向こうから覗きこんだ。


「ま、そういうところがオマエらしいよな。合唱はもちろんだけど、俺の歌も聴けて良かったと思ってもらえるくらい頑張らなきゃ」


……天音、オマエは本当にプラス思考だよ。

俺はタスクが話題をかっさらうだろうことを悔しく思っただけなのに、オマエはそこからさらに一歩を踏み出していくんだな。

コイツの常に挑戦する姿勢は、障害を抱えながらも乗り切ってきた強さと相まって、いつも俺をハッとさせる。


「そうだな、いつかコンサートのチラシに天音の名前も載るくらいになったらいいな」


今回のアンコールソロは、実質天音のデビューになるんじゃないかと俺は思っていた。

あのアヴェ・マリアを聴けば、タスクとは別の意味で話題騒然となるに違いない。


「ははっ、目標高すぎだろ」


頬に苦笑を滲ませながら、奴はマグカップを手に取った。

あれ、余計なコト言っちまったかな?と思いながらも、敢えて気づかない素振りで俺もコーヒーを口に含んだ。


「ところでさ、昨日舟橋さんが言ってたんだけど、来週TASUKUが練習を見に来るみたいだよ」

「そうなんだ?こっちの仕上がり具合でも見に来るのかな」

「詳しい話はなかったけど、多分そういうことじゃないかな」


一応俺は勉強がてらレクイエムの演奏動画を何本か見てみたが、オケによって雰囲気がずいぶん違うんだなと思う。

技術的なことはもちろんのこと、曲の解釈もそれぞれなんだろう。

それにしても、こんな風にふたつの団体がコラボするときって、どっちの雰囲気に合わせて曲を仕上げるんだろう?

本来なら指揮を執るタスクの指示に従っていくべきなんだろうけれど、あくまでこれはHARUKAのコンサートなのだ。

タスクはそれを擦り合わせるために来るのだろうか。


「なんだかドキドキするな。俺、自分がオーケストラと一緒に歌うなんて、合唱団に入るまで考えたこともなかったから」


寺山修司の楽譜を買ってしまうくらいだから、歌や合唱はもともと嫌いじゃなかった。

もしかしたら、HARUKAじゃなくてもいつかはどこかの合唱団に入っていたかもしれない。

……いや、多分それはないな。

望月が誘ってくれて、天音と一緒に歌いたいと願ったからこそ、ここに入団したんだから。


「だよなあ。俺なんか、ホントに舞台に立って大丈夫か?って自分で思うし」


言葉に若干の不安を見せながらも、穏やかな表情で天音は口角を上げる。

なんだかんだ言っても俺たちは、その日が楽しみで仕方がないのだ。

こうして天音と話していると、さっきまでの身体のだるさがすっかり抜け落ちたのを感じる。

俺は早く歌いたくてウズウズし始めた。

とりあえず明日の練習に備えて、少しコイツに付き合ってもらうか。


「俺、明日からHARUKAに復活するよ。でもここんところずっと声出してなかったんだ。オマエちょっと見てくれよ」


早速俺はソファから立ち上がって、姿勢を整えた。


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