ピアニッシモ・第三楽章
第1話
桜の蕾が膨らみ始めた3月中旬、高峰高校は一足早い春休みを迎えた。
朝トレのジョギングのために5時半にタイマーセットした目覚まし時計は、休みに関係なく毎日きっちり仕事をこなす。
しかし俺は、ここ数日ソイツを無視してベッドの中に潜り込んでいた。
長期休暇に入って気が抜けたわけではない。
年度末の終業式の日、俺は珍しく熱を出して初めて学校を休んだ。
どうやら三寒四温の気候に身体がついていかなかったようだ。
バカは風邪ひかないっていうけど、どうやら俺はバカではなかったらしい。
2日間続いた高熱は、その後上がったり下がったりを繰り返し、俺はここ5日間をほとんどベッドの上で過ごした。
その熱が昨日の晩から治まり始め、今朝ようやく目覚まし時計の音とともに起き上がることができたのだ。
久しぶりにダイニングで朝食をとる俺を見て、母さんがホッとしたような表情を浮かべた。
「お母さん仕事に行くけど、焼きそばテーブルに用意しておくからね、昼に食べてね」
そう言い残して慌ただしく玄関を出ていく後ろ姿を見送って、俺は下がった熱を汗とともに抜き切るためにシャワーを浴びた。
リビングのソファに座って、ぼんやりとスマホの画面を眺める。
終業式の日に天音と望月から電話が、翌日にHARUKAの舟橋さんから個人宛のラインが入った。
それっきりコイツは沈黙している。
クラスの奴らからも連絡が欲しいと思っていたわけでもないけど、こうもまったく音沙汰無しだとやはり寂しい。
それなりに慣れ親しんだクラスだったけど、終業式に顔を出せなかった俺を気にかけてくれるような奴はいなかったんだ。
やっぱりどこか浮いていたのか?
天音も望月もあれっきりだし、こういう時自信の無い自分が顔を出し始める。
友達だと思っていたのは俺だけだったのかな……。
「あーあ、暇だなあ」
俺は自分を励ますようにわざと大きな声を出して、ソファにスマホを放り投げた。
解熱したと言え、まだ気だるい感覚が全身を覆っている。
それが更にネガティブな気分に追い打ちをかけた。
こんな調子じゃ外出って訳にもいかねぇなと思いながらカレンダーを見上げる。
今日は水曜日か。
HARUKAも休みだし、ホントならシンジさんのところにでも行きたかったな。
フウッとため息をついて目を閉じる。
と同時に、手元に投げ出されていたスマホが着信を鳴らし始めた。
「うわっ?!」
久々に聞く音は思いのほか大きく、俺はビックリして相手を確かめる間もなく、慌ててスマホを耳に押し当てた。
「あ、貫」
相手は天音だった。
「久しぶり。調子、どう?」
たった5日声を聞かなかっただけなのに、確かにすごく間が開いた気がした。
改めて、高校に入ってからの一年をいかに密接に過ごしたのかを感じる。
「熱は下がった。あともう一息って感じかな」
電話の向こうで、フゥッと息を吐く音がした。
「あー、良かった。この前電話した時ひどく辛そうだったから、連絡控えてたんだ。今日オマエん家行っていい?今更だけど、見舞いっていうか。あ、でもまだ辛い?」
そっか、全然音沙汰がなくなったのは気ぃ遣ってくれてたのか。
確かに一番ひどい状態の時だったからな。
「いや、俺は平気だけど、オマエに風邪移しちまうんじゃないかって」
「ははっ、大丈夫だろ。十一時くらいでいい?」
電話を切ると同時に、自然と頬が緩んでいる自分に気が付く。
さっきまで胸を刺していた寂しさが、嘘のように消えていた。
友達がわざわざ見舞いに来てくれるなんて初めてだ。
長期休暇に入ったというタイミングもあるのかもしれないけど、純粋にとても嬉しい。
それに、HARUKAにもしばらく行くことが出来なかったから、そっちの様子も聞きたい。
6月のコンサートまで3ヶ月を切った。
SIGNALとのコラボレーションの『レクイエム』はアヴェ・ベルム・コルプスと同じくラテン語で、初めて譜面を見た時俺は発音がほとんど理解できず、望月に手ほどきを受けて全部カタカナでルビを振った。
とりあえずそれで歌詞をすべて丸暗記した後ルビを消し、改めて単語を頭に叩き込んだ。
長年合唱をやってきた望月は言っていた。
合唱はいろんな言語に触れる機会が多いから、いずれルビを振らなくてもある程度読めるようになる。
単語の意味もなんとなく理解できるようになると思うから、大変だけど頑張れよ、と。
HARUKAでは曲に入る前にどの言語でも朗読会を行い、世界観の統一化を図っていた。
正直、俺はこういう宗教色の強い内容はよく分からない。
それでもただ単語を追いかけて歌うよりも、はるかに有意義だと思った。
パート別の音取りは去年の内にとっくに終わり、今年に入ってからは曲ごとの歌い込みに入っている。
すでに全曲一通りガッツリなぞり、少し前から二巡目の歌い込みが始まった。
俺が練習に行った最後の日には第2曲のキリエをおさらいし始めたところだったから、多分昨日あたりから第3曲のセクエンツィアに入っただろう。
俺はこの中のディエス・イエが好きだ。
初めて歌ったとき、怒りの日というタイトルにふさわしい劇的な歌い出しに、自分の中にあるモヤモヤとしたものを吐き出したような気分になった。
歌詞の意味を考えると不謹慎な気もするが、これを歌うと妙にスッキリとした爽快感に包まれる。
しかし最初はフォルテッシモで乱暴に歌っていたため、すぐにパートリーダーの津田さんから厳しい指導が入った。
「貫、大きな声を出せばいいってもんじゃない。もっと周りの音をよく聴け」
HARUKAの団員は65名もいる。
普段はみんな仕事優先で、毎日およそ半数ほどの人数が入れ替わり立ち代わり練習に顔を出すという感じだ。
それが曲が発表されてからは、ほぼすべての団員が毎日熱心に通ってくる。
それほど、HARUKAのコンサートにはみんな情熱を注いでいるのだ。
30人ほどの声量に慣れていた俺は、初めて全団員の中で歌ったとき、地響きも感じられるほどの声量に圧倒されてしまった。
特にディエス・イエは、みんなの気迫に圧されて自分の声がまったく掴めなかった。
それに焦って、闇雲に声を張り上げていたのだ。
「だから、声は出すだけじゃダメだって。響かせるんだ。身体が音響設備そのものなんだから」
その感覚がいまひとつつかめず苦戦していたとき、山崎さんから教わった方法だけど、と天音が俺にアドバイスをくれた。
唇をほんの少し開けたまま喉を開いて鼻から声を抜く、いわゆるハミングだ。
その時に鼻腔の奥に声が当たっているのを意識する。
言われた通りに実践してみると、頭の中で声が響き渡って脳が振動しているような感覚が襲った。
少しクラクラするくらいだ。
「当てる位置や喉の開け具合によって声もすごく変わるから、他の人に聴いてもらって声が一番響く場所を探るのがいいと思うよ」
俺も初めはよく分からなくて大変だったと、天音は穏やかに笑った。
何しろ可聴音域を外れると鼻歌だって聴こえなくなるわけだから、高音を響かせるコツはまさに身体で覚えるしかなかったという。
山崎さんに何度も厳しく指導されたんだと話してくれた。
それでもアンコールソロの大役を貰って舞台に立てるからには、弱音は吐けないと天音は笑う。
コイツに負けてはいられないという思いが俺をも奮い立たせた。
毎日早めにファミレスを引き上げて、練習前に徹底的にハミングトレーニングを行う。
天音と望月が自主トレに付き合ってくれて、その様子を見た津田さんも早めに来て俺を引っ張ってくれた。
HARUKAが休みの水曜日と週末は、家でトレーニングをして状態を保つ。
おかげで、ひと月も経つころには俺の声もずいぶん変わったと他の団員にも褒めてもらえるくらいになれた。
もちろん実力はまだまだだけど、やっとHARUKAのレベルに近づいてこられたと思っていたのに、ここ一週間近く声を出すことすらできなかった。
ピアニストの指は一日鍵盤に触れなければすぐに鈍(なま)り、三日サボれば振り出しに戻ってしまうと聞いたことがある。
声楽だって同じようなものだろう。
明日から練習に行くつもりだけど、その前に少しでも取り戻しておきたい。
俺はソファから立ち上がった。
まずは腹式で何度か呼吸してみる。
呼吸って意識すると案外疲れるんだよな。
案の定、体力がひどく落ちているのか、すぐに息が上がってしまう。
「あー、くそっ、なんで熱なんか出ちまったかなあ」
額を抑えながら、俺は再びソファにドッカリと座り込んだ。
とりあえず楽譜の読み返しをしておこう。
自室に戻ってベッドに寝転がり譜面をめくる。
改めてこうして楽譜を眺めると、自分がオーケストラと一緒に舞台に立って歌うなんて、まるで嘘みたいな気がした。
自分に自信が無くて、やり場のない虚しさが胸を覆っていた1年前。
今もさほど成長していないのかもしれない。
でも俺は、少しずつそんな自分を許して開き直る術も身に着けてきた。
それは、どんな時も俺を受け入れてくれた天音のおかげだ。
アイツに出会わなければ合唱団にだって入ることは無かっただろうし。
中学時代の友達は、今俺が合唱に情熱注いでるなんて言ったら驚くかな。
……いや、そもそも俺のことなんかもう忘れてるか。
遠くにインターホンの音が聴こえる。
俺はうっすらと目を開けた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
開いたままの楽譜が左頬の真横に投げ出されていた。
ぼんやりと時計を見上げると、約束の十一時を少し過ぎている。
慌ててベッドから飛び起きて、階段を足早に駆け下りた。
一応インターホンのモニターを確認すると、所在なさげにキョロキョロしている天音の横顔が映し出された。
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