第9話

アヴェ・マリア?

いつの間にそんな曲……。

HARUKAでは歌ったこともないし、聴いたこともない。

望月を見ると、奴も驚いた顔で天音の横顔を見つめていた。

歌う姿勢を整えて、深く息を吸う音が微かに響く。

囁くように流れ始めたメロディーは、確かにどこかで聞き覚えのある曲だった。

歌が始まった途端、頬の片隅に笑みを浮かべていた佐藤の顔から表情が消えた。

きっとこんな天音を想像もしていなかったのだろう。

耳に障害を持つ人間には、歌など歌えるはずがないと決めつけていたのかもしれない。

それにしても……。

サビの盛り上がりは、まさにオペラ歌手並みの声量だ。

この音響効果のない教室でさえ、声が壁に反響している。

そして耳が不自由とは思えない正確な音程。

何より佐藤をはじめクラスメイト達を驚愕させたのは、その声質だ。

本当に男の声なのか?と思うほど、透明感のある高音。

先日蒼空でコイツの歌声を聴いたとき思わず鳥肌が立ったが、今日も気が付けば俺は無意識に右手で左腕をしきりに擦っていた。

望月をチラッと見ると、奴は焦ったような表情で食い入るように天音を見ている。

そうか、望月は蒼空での歌は聴いていないから、衝撃的だろうな。

歌っているときの天音は、まるで何かに取り憑かれているみたいだ。

顔が変わる、とでも言えばいいのか。

この声と合い極まって、性別を超えた雰囲気を醸し出している。


「すげぇ……。岡崎、いつの間にこんな……」


望月が唸るように呟いた。

最後の小節を歌い終えて、天音はホウッと小さなため息をつく。

教室の中は、シーンと静まり返った。

みんな天音の歌に圧倒された様子で立ちすくんでいる。

と、突然廊下の方向から拍手が沸き起こった。

驚いて教室の出入り口を振り返ると、いつの間に集まってきたのか、他のクラスの奴らが折り重なるように教室の中を覗いている。

考えてみれば、あんな声量では教室の外にも響き渡って当たり前だ。

思ってもみなかった大勢の観客に気付いて、天音は真っ赤になりながら俺の後ろに隠れるように引っ込んだ。


「佐藤、俺たち合唱団のレベルについていくには、毎日練習に行かなきゃならないんだ。気分悪くさせて申し訳なかった。でも、ホントに当日頑張るから許してほしい」


言葉を失っている佐藤に、俺は丁寧に声をかけた。

奴は上の空でコクコクとうなずく。


「ゴメン、ホントにもう出なきゃ、練習時間に間に合わなくなっちまうんだ」


言いながら俺は、机に置き放っていたカバンを手に取った。

天音と望月も慌ててカバンを掴む。

クラスメイト達の間を素早くすり抜けて教室を出ると、廊下から覗いていた奴らがサッと両端に寄って道を開けた。

まるで花道のようになった廊下を、俺たちは足早に通り過ぎる。

校門を出たところで、やっとホッとして腕時計を確認すると、もう5時半を過ぎていた。

今日はいつものファミレスに寄れそうにない。


「岡崎オマエ、練習中、腹持ちそうか?」


若干駆け足になりながら、望月が尋ねる。

天音はハラヘリになったら、思考が停止してしまうからな。

練習前に少しでも食わせてやりたい。


「ん、多分持たない。あっちの駅に着いたらコンビニで何か買って食うよ」


今から電車に乗ったら、向こうの駅に着くのは6時半を過ぎるかもしれない。

ホームへの階段を上がりきったと同時に到着した電車を取り逃さないように、急いで乗り込む。

2度の乗り換えは、時間がタイトな時は大変だ。

1度目の乗り換えはホーム降りて向かい側だが、2度目は駅の構内が複雑で少し歩かなければならない。

いつも若干間に合わず一本電車を見送っていたけれど、今日は絶対に逃したくない。

俺たちは2度目の乗り換え駅に着いた途端、走りたい気持ちを抑えて足早に次のホームへ向かった。

途中まで階段を下りたところで、電車がホームに滑り込んでくるのが見える。

慌てる周囲に交じって、俺たちも急いで駆け下りて一番近くのドアに飛び込んだ。


「はぁ~~、コレに乗れたから、ちょっと余裕だな」


俺はうつむいて、大きく息を吐いた。


「それにしても佐藤、不満だったんだな。前に松坂が言ってた通りだな」


 望月が残念そうな声で呟いた。


「まあ何でもそうだけどさ、こういう行事の準備なんかで特定の誰かだけに大きな負担がかかるっていうのは、良くないんだろうな。やっぱり愚痴のひとつも出てきてアタリマエだろう」


俺もため息交じりに答えた。

天音は黙ったまま窓の外を眺めている。

いつもなら今の時間はすでに食事をしている頃だから、もうハラヘリになってしまっているのかもしれない。


「天音?大丈夫か?」

「ん?」


ほんの少し頬を上気させて、天音は俺を振り返った。


「いや、オマエぼんやりしてるし、腹減りすぎてんのかなと思って」


天音はクスッと笑う。


「さっきから望月も貫も腹のコトばかりだな。まだ大丈夫だって。さっきのコト、考えてた」

「さっきのコト?」

「アヴェ・マリアを歌ったときのこと」


再び窓の外に視線を移して、天音は穏やかに微笑んでいる。


「そうだよ、岡崎、オマエいつの間にアヴェ・マリアなんて練習したんだよ?」


望月が思い出したように問いかけた。


「ヴォイストレーニングの時に、山崎さんが教えてくれたんだ。俺の声に絶対合うからって」

「へぇ……、山崎さんが?」


訝しげな表情で望月は呟く。

それもそのはず、山崎さんが自ら曲を教えるなんて滅多にないことだ。

よほど天音のことが気に入っているのだろう。


「オマエ、山崎さんに褒めてもらえたって言ってたもんな」

「えっ岡崎、山崎さんに褒めてもらったのか?すごいな、俺だってそんな経験無いぜ」


心底驚いた顔で、望月は天音の横顔を凝視した。

長年歌い続けてきた望月には、少なからずショックだったらしい。

あの山崎さんが……と、しきりに呟いた。


「さっき教室で歌った時、あんなに人が見に来てたなんて気付いてなかったよ」


俺たちふたりを交互に見ながら、天音は続ける。


「俺、恥ずかしかったけど、ちょっと気持ちよかった」


照れながらニコッと笑う天音に、俺も思わず微笑んでしまう。

望月も、ほんの少し苦笑いしながら軽く頷いている。


「そっか、良かったな。オマエの歌、たくさんの人に聴いてほしい。だからHARUKAに誘ったんだぜ?」


山崎さんに認められた天音に動揺したみたいだけど、この言葉に嘘はなさそうだ。

コイツ、イイ奴だな。

俺は望月と友達になれて良かったなと思う。

天音も嬉しそうに、ありがとうと答えた。

それにしても、あの場で天音の歌を聴いた奴らは、いったいどう思っただろうか。

佐藤なんて、きっと度肝を抜かれてしまったに違いない。

でもこれをキッカケに、みんなともっと仲良くなれたらいいんだけどな。

電車が駅についた。

改札を出たあたりで、天音がソワソワし始めた。


「あ、あそこのコンビニ寄っていい?」


やっぱりハラヘリになったんだ。

俺と望月は互いに顔を見合わせてフフッと笑った。

一瞬顔を赤らめた天音は、そそくさとコンビニの中に入っていった。

俺たちも後を追いかけて中に入ると、奴はすでにカゴの中におにぎりを5個とパンを2個、お茶のペットボトルを2本入れていた。

俺もおにぎりを2個選んで、一緒に会計に並ぶ。


「うーん、足りるかなぁ……、でも食う時間あまりないしなぁ……」


目の前の天音は小声でブツブツと独り言をつぶやいている。

その真剣な表情に、思わずプッと吹き出してしまった。

コイツにとって、食事はかなりの重要度を占めていることが改めて分かる。

飲み物だけを手に取っていた望月がかごの中を覗いて、「相変わらずだな」と呆れている。


「さっさと行ってロッカーで食おうぜ」


コンビニを出るなり、天音は急にせかせかと歩きはじめる。

俺と望月はキョトンとして再び顔を見合わせた。


「早く来いよ!」


ずいぶん先に進んだ天音が、振り返って待ちきれないように叫ぶ。

その切羽詰まった様子に大笑いしながら、俺たちも急ぎ足でHARUKAに向かった。

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